対話は本当に弁証法的行為なのか
対話は本当に弁証法的行為なのか
ちょっとズレるけど「対話は本当に弁証法なのか」という疑念、常々ある。kbyshwtn.icon
「対話」においてそう問えてしまうこと自体、対話というものが、昇華(垂直運動)のない分裂的/結合的な行為でしかないのでは、という。
まあこれは対話に対する不信感というより弁証法に対する不信感なのだが。
(僕の弁証法の捉え方はぶっちゃけヘーゲルの図式以降何もアップデートできてないから、弁証法の捉え方自体が薄っぺらという可能性isある)
殴り合うより、分裂や結合を許さない絶対的〇〇(例えば絶対的否定、完全な拒絶)を晒すことで、目撃者の存在を変容させる(かもしれない)、とかの方が事実じゃない?みたいに思っている。
我々が音楽に感動するとき、その音楽はコミュニケーションツールとして提示されているのではなく、ただ晒された存在である、みたいな。いや別に歌詞に感動して泣いたっていいのだが、僕はそれを真の感動とは呼ばない、みたいな。