ことばの振り付け
「コンテキストを失ったことば」について考えてたnozakimugai.icon
端末
メインフレーム=中央に対する端末、というコンテキストだったけど、自前で完結しているスマホやノートPCがいまだに端末と呼ばれるのはよくよく考えると妙
IT用語そういうの多いな
「アプリケーション」とかもそう?
この辺の言葉にはその言葉ができた当時の「営み」の軌道みたいなものが残っていて面白い
「刻んでる」というか。
そう考えると「意味」には「営みにコンテキストを依存する意味=刻まれる意味」と、「営みが薄れ抽象化した意味=数えられる意味」の区別もありそう
前者は常にパフォーマティブ(記号論的にいうなら「エティック」な意味?)で、後者はコンスタティブ(イーミックな意味?) 面白いのはこの二つの区別そのものより、「パフォーマティブ/エティックだったものがコンスタティブ/イーミックなものへと移行していく」というグラデーションの部分
哲学タームとかも実際はその場その場で営み的に(場当たり的に、ある問題の穴埋めをするためのアップリケとして)生み出されてきたのだろうし、だからこそ万能ワード的に使おうとすると胡散臭くなる
し、「誤用万々歳」みたいな顔している現代思想の研究者たちも実際には文献をきちんと読んで当時の「刻み/営み」に立ちかえる、みたいなことをしっかりやっている
「し、」で文章を接続できると思ってるのウケるな
そういう意味では僕は言葉をキーワード的に濫用して誤用するのではなく、身振り/営みのレベルに立ち返った時に、その身振りが持つ必然的なズレ/ブレによる意味の分岐や、全く別な身振りとの類似による接続、みたいなものに興味があるのかもしれないな
振り付けって言葉いいな。「振る」と「付ける」がそもそも「刻む」と「数える」の関係とパラレルだし。
逆にイーミックなものをエティックなものへと差し戻す営みもある?
言葉を意図的に誤用したりメタな意味を与える営み
内輪ノリ的に作り出す造語とかタームとかはある意味これな気がする
ビジネス用語の可笑しさは、それ自体は実際めちゃくちゃローカルでエティックなのにまるでそれがイーミックな言語のように振る舞っている、というギャップの部分にあるのかもしれない
めっちゃ振り付けられてるのに、日常動作ですけど?みたいな顔してるというおかしみ
なんか最近自分の中で「営み」とか「ローカルなもの」、「ネイティブであること」みたいなものが重要になってきてるな
「刻む/数える」は概念的な図式というより、僕が自分の身体・認知の癖と理論的な空間をうまく設置させるための「知覚の方法」であるように思える。
そういう意味でこの図式自体がめちゃくちゃ「刻んで」いる。
「リベラル」とかももはやこれかもしれない
この辺のこと考えてて思ったけど、僕が関心を持つ対象は目の前の物質的な「かたち」だけではなくて、出来事/ものごとに含まれている抽象的なかたち、身振り、体勢(力の勾配、的な意味で)みたいなものも含まれてるんだな
あと言葉とその使用みたいなものにはやっぱり関心が向きがち