合理性は営みから生まれる?
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問題提起の力が学ばれないとか結果が予想できる事しか試せないの話からふと思った
合理性、ある目的の達成≒問題の解決のための手法の問題として捉えられることが多いけど、実際にはルーティン的に行われていた「手法」が先にあり、そこから遡行する形でその先にある「問題」、そしてその手法自体の「合理性」が発見されるんじゃないか?
「アイディアが降ってくる」みたいなのはこのプロセスを隠蔽した表現だな、と思うことがあるkbyshwtn.icon
現実には「あらかじめ無自覚になんとなく対処されている問題」があり、それは対処されているが故に問題として発見されない。
そこに何らかの更新、エラー、ズレ、ブレが生じた時に「実はこういう問題があって、ずっとやっていたこの行為がその問題の解決のための合理的手段だったのだ」という問題系が発掘される
進化論とか進化心理学とかに言える話かもしれない。
日常的な文脈では「進化」って自然の淘汰に抵抗して生き残るための合理的選択、みたいなものとして捉えられがちだけど、本来の意味での自然選択や変異は完全に偶発的で、事後的に見出されるもの
あらゆる「合理性」が実際にはそういう遡行的なものであって、「合理性を目指す」ことなんて不可能(無意味)なんじゃないか?という
わかるKai.iconkbyshwtn.icon
目的合理性と価値合理性の区別以前にある、不可視の合理性(それが「合理的である」ということ自体が覆い隠されているようなもの)みたいな。
そういう有機的な合理性を目指したければ、有機的に「生きる」しかない
問題解決をまなざすと結果が見えているわけで、未発見のまま絡まり合った問題/合理性/手段の塊を掘り出すためには、絡まり合った現実に飛び込んでみるしかない
冒険しろ!という話というわけでもない気がする。風呂とか料理みたいなルーティンでもそういうものが生まれ得るとは思う。
それら一個一個を「マジでやれ」ということなのかも。人生をガチれ。
東浩紀みたいなことを言っているかもしれない
それが「問題を起こす力」であり「問題を発見し提起する力」なのではないか、という。
問題的に生きろ。
カラム思考: ADHD的な思考を反芻思考からの脱却に利用するとも絡む
というのを歯磨きをしながら思った
歯磨きって元々は虫歯や歯周病に対する問題解決を意図して生まれたものではなかろう、という
歯磨き思考kbyshwtn.icon
まあそういう有機的な営みから純粋な「合理性」を抽出するという逆説を起こすのが近代的な脱埋め込みのメカニズムということなんだろうな
脱埋め込みという言葉の使い方合ってるかわからんけど
これはある種のポパー主義なのかもしれない。
科学は合理性の体系だけどその発展自体は非合理的・不連続な断絶によって起こる
ひらめきとか
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洗濯物干すのもHIPHOP。みたいな方法だ。
「問題」みたいな言葉じゃなくてもうちょっと美学っぽいけど、そういう別のフレームワークに突っ込んでみるってことで手段を再発見するみたいなやり方はありそう。
それって「詩」だ。