訂正可能性の哲学
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この辺は勉強した記憶があるblu3mo.icon
さきに規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体をつくるのではない。さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する。クリプキはそう結論づけた。
けれどもぼくの考えでは、その結論もまだ静的すぎる。現実には規則は移り変わっていく。共同体も移り変わっていく。ゲームそのものが変わっていく。規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろ、プレイヤーたちが繰り出すプレイについて下される毎回の成否判断、そしてそれに付随する「訂正」の作業こそが、規則と共同体をともに生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうか。
なんか、それはそうだな、という気持ちblu3mo.icon そこから何を導くのかの方が気になるな
なぜならば、彼がわざわざ家族の比喩を使って造語した「家族的類似性」は、全体を支配する強い同一性はないものの、部分と部分のあいだでは小さな共有された特徴があり、それらが重なりあうことでひとつの広がりをつくるような、ゆるやかな同一性を意味する言葉 規則が変わるという訂正が「遡行的」であるとする必然性があんまり掴めていない
家族は遊びを共有する親密な共同体であり、その規則を理解できない参加者は、クリプキの懐疑論者のようにあっさりと排除される。だから閉じている。けれども、さきほども記したように、ときにそんな遊びに参加する他者が現れ、思いもかけぬ行動によって規則を遡行的に「訂正」してしまうこともある。だから完全に閉じているわけでもない。その点では開かれているともいえる。家族とゲームの概念は、開放性と閉鎖性の二項対立よりも上位にある。開かれたものと閉ざされたものを対立させる発想は、人間のありかたを考えるうえではそもそもあまりにも粗雑なの
一見すごい面白いことを言っていると思ったが、「現実には開放と閉鎖のどっちもあるよね」という至極当たり前の話にも読めるな
参加者が固定しているわけでもなく、新しい状況にあわせてすがたを変えていきながら、それでも「同じなにか」を守り続けていると主張する組織や団体。政党にしても企業にしても結社にしても、あるいは国民国家そのものにしても、世界にはそのような存在が溢れているが、その強さの源泉はなんなのか。ぼくはそれについて考えたいと思った。
まあ「開放でも閉鎖でも無いものがほとんどなので、そういうものについて考えたい」という前提共有だったのか
「定義の束としての固有名」ではもんだいがある
確かに、これをシンプルに共同体における規則の訂正と捉えれば話が通るのかblu3mo.icon