マインドアップロード、自己の複製・分裂
宇宙破壊主義 #私、一人称、自己意識の哲学
自分が分裂・複製する状況で、どのようにするのが利己主義的に正しいかという問いが発生する
未来に分裂した自己のどれかに自分がなるが具体的にどれになるかは知らないと想像してもっとも幸福になれる (不幸にならない) 選択を行うのがロールズ的利己(※)主義とよび、
自分がどれになるとかじゃなく未来に分裂した自己全体の効用の総和を最大化しようとするのは総量利己主義(未来に分裂した自己全体の効用の平均を最大化しようとするのは平均利己主義)と呼ぶといいかも
(※この利己主義でいう"己"は分裂している)
Where Physics Meets Experience - LessWrongのYu'el がロールズ的利己主義、De'da が総量利己主義に対応する?
ロールズ的利己主義
一つの直感的な考え方によれば、「どの未来のayu-mushiが自分かについての事実自体が存在しないのではなく、今この瞬間にも分裂後のayu-mushiのどれか1つについてそれが自分であるという事実が確定しているのだが、どれが自分なのかを分裂前のayu-mushiは知らないというだけ(この不確実性を表現するために確率を用いる)」のように考える
ここでの確率概念は、確率を無知の現れと見る主観主義を採用できる。
これは無知のヴェールのような状態 (ただしここでいう無知は人の通時的同一性についての無知であり、オリジナルの無知のヴェールや眠り姫問題におけるような「どれが私なのか」という indexical uncertainty / de se ignoranceとは異なるので、あまり良い名前ではないかもしれない。)
平均利己主義では確率を割り当てる代わりにその状況にあるような未来の自分複製の全体の中での比率に効用をかけて全体としての効用を算出するため、ロールズ的利己主義における期待効用の式と平均利己主義における平均効用の式は全く同じ式になる?
平均利己主義における行為aの平均効用
$ \Sigma_{x \in X}\ \frac{(行為aの結果として、結果xにある自分複製の人数)}{(自分複製全員の人数)} u(x)
行為aの期待効用
$ \Sigma_{x \in X}\ p(x|a)u(x)
に
ロールズ的利己主義における行為aをしたときの結果xになる確率の計算
$ p(x|a) = \frac{(行為aの結果として、状況xにある自分複製の人数)}{(自分複製全員の人数)}
を代入すると平均利己主義における行為aの平均効用の式と同じ式になる
参考:
「『君が麻酔されている間に』とユエルは言う。『コインを投げる。表が出たら、君を3人は赤い部屋に、13人は緑の部屋に入れる。裏が出たら、その割合を逆にする。もし君が緑の部屋で目覚めたなら、コインが表だったという事後確率はいくつだ?』
デーダはしばらく考え込む。
『うーん……』と彼はゆっくり言う。
『どんな推論方法を使っても、どちらにせよ一部の「私」は間違うことになるのは明らかだ。だが、もし賭けを持ちかけられるなら、「それぞれの自分が、自分の色が多数派である事後確率を13/16とみなして賭ける」という一般方針を取れば、損をする「自分」の数を最小化できる。もしその判断を分裂の細かい仕組みに依存させようとするなら、それは結局、賭けを提示する側がエボリア人をどう数えるか次第になってしまう。』」
Where Physics Meets Experience - LessWrong (原文は英語)
眠り姫問題だと起きた後に聞いてるけどこれは前に聞いてる
ロールズ的利己主義への反論
本当は自分は複製後全ての自分複製になるのであり、「その中のどれになるのか」と考えたり、現実世界/シミュレーションどちらかの方にいる確率を考えたりするのは無意味ではないか
無意味というのがおそらく人格の通時的同一性についてのデレク・パーフィットの考えである ([3]によると)
パーフィット的な立場によると、人の通時的同一性について知らないだけで確定している事実があるのではなく、そもそも人の通時的同一性についての事実なるものはないため、ロールズ的利己主義は否定される
「複製後には自分は現実といくつかのシミュレーションの (どれかではなく) 全てにいる」ということが複製前にすでに分かっているのだから、そこに不確実性などはなく、確率は不確実性を表すという主観確率の観点からすると、確率を考えることは意味をなさない、という考えも存在しうる([1]のDe'daの考え) 。
aである確率というのが自分複製のうちaであるものの比だとしても確率のコルモゴロフの公理自体は満たすからある種の確率といってもよさそうではあるけれど、主観確率ではない
(平均利己主義を取る場合) 意思決定理論的な期待値計算に使われるという意味でも確率かも
じゃあやっぱりラムジー的な主観確率なんじゃない?
確率ではないとすると量子力学で多世界解釈を取る場合に量子ビットを観測したときどちらかである確率というのも意味をなさなくなるけど
(では複素確率振幅とはなんなのか)
どの複製が自分になるのかというのは眠り姫問題[2]における (起こされた後の眠り姫の視点からの) 「今日は月曜日なのか火曜日なのか」という不確実性とは異なる。眠り姫問題では起こされた後にも世界の中で自己の居る (時間的な) 位置について真正の不確実性がある。
それに対し、シミュレーションのシナリオにおいては、複製が起こる前には自分は1人だし、起こった後には自分が現実にいるかシミュレーションにいるか (あるいは複数のシミュレーションの中でどのシミュレーションに居るか) 分かるものとしているので「自分が今 (複製のうち) どれであるか」について不確実性は存在しない。
ここで問題になっているのは複製前の自分にとってどの複製後の自分複製が自分なのかという (人の通時的同一性の) 問題であるが、そのような問題について答えは存在しない (全てが同等に自分としての資格を持つ――そもそもシミュレーションはオリジナルに比べて自分としての資格が無い/少ないなどと考えるのでない限り)。
複製後の自分複製たちには自分がどれになったか分かっているという事実は複製前の自分にとっては役に立たない。自分がどれだか分かっているという点では未来のayu-mushi複製たちayu-mushi.icon*4に限らず未来のジョー・バイデンなども同じであるが、そのことは複製前のayu-mushiayu-mushi.iconにとって役に立つことではない
複製後には自分がどの自分複製であるか「判明」するからそれに対応する事実が複製前にも存在しているはずだ などという議論をするなら、未来に自分がジョー・バイデンであったと「判明」する可能性もある、などと同じ理由から言えてしまわないか、というのに回答する必要がある
「(たとえば) 未来のayu-mushi複製No.2が、『私は ayu-mushi複製1でもayu-mushi複製3でもなく、ayu-mushi複製No.2だ』と信じているのは真である (そのように判明する)。あとから判明しうるということは、現在においても事実が確定しているということであり、それに対応する事実が現在の時点で存在する。よって、未来の私は 他でもないayu-mushi複製No.2になると (今の私が知らないだけで) 現在の時点で確定している」
「未来のジョー・バイデンが、『私はジョー・バイデンだ』と信じているのは真である。あとから判明しうるということは、現在においても事実が確定しているということであり、それに対応する事実が現在の時点で存在する。よって、未来の私はほかでもないジョー・バイデンになると (今の私が知らないだけで) 現在の時点で確定している」
あるいはそれを受け入れてしまえばいいかもしれない。私はいまはayu-mushiだが、未来には実はその中の誰かになっているという事実があり、それは知らないだけで現在確定している。そのように考えれば、通常であれば利他的とされる行為をすることが利己的であることになるだろう (自分がそのひとに「なる」かもしれないので)。あるいは、不幸な人間を殺害することでそれが自分になる可能性を除去することも考えられる。
私が利己的に意思決定するときに、自分が未来に、複製されたayu-mushiたちayu-mushi.icon*3だけではなく、ジョー・バイデンになっている可能性なども考慮し、彼の利益を期待効用の計算に含める必要があるのか?
つまり、この「判明」というのは、「明日になるまであした雨が降るか降らないかわからないが、明日になれば判明する」というときの「判明」とは根本的に違うことを表しているのではないか
参考
[1]Where Physics Meets Experience - LessWrong
[2]眠り姫問題 - Wikipedia
[3]秋葉 剛史, 倉田 剛, 鈴木 生郎, 谷川 卓『ワードマップ現代形而上学』
総量利己主義
自分のコピー全部の幸福の総和で私利というものを考えるので、個々の幸福が0より少しでも高いなら自分のコピーは多ければ多いほど良いという考え
そのような考えを持つ人は増えていく(物理)ので、自己を複製(物理)できるようになったらそのような考えを持つ人ばかりになるかもしれない。(幸福度に関わらず自分のコピーをできるだけ作ったほうがよいと考える人のほうが、より増える力が強いけど)
ロールズ的利己主義において、「Xという未来のayu-mushi複製の1人が、自分である」という事態を、Xが死んでいる場合にはあらかじめ排除できる (死んでいるならばそれは自分ではありえない) のであれば、自殺が合理的になりうる
ただし分岐直後に死ぬのでない限り、後にすぐ死ぬのであってもそれが自分であるという事実になっているという不確実性は排除できないのでは
分岐直後に死ぬという操作を「その方向への分岐を作らない」と同じ意味の操作と考えたいため
平均利己主義でも今考えている平均より小さい効用を持った枝の自殺は合理的
総量利己主義でもゼロより小さい効用の枝の自殺は合理的
というか普通の総量功利主義、平均功利主義でも素朴に計算すればそうなるはずだけど、そう言われていないのは、死と「存在がなかったことになること」は等価とはされていないからでは
無知のヴェール下で不幸な人を殺害することで自分が不幸な人であることが判明する確率を下げる
単に自分が自殺する可能性を含めることではないのか? 自分が誰かについて不確実性がある場合にはそうではないのか?
無知のヴェールにおける人々はお互いがお互いの複製になっているわけではないので、「コピーを消すと移動できる」という話とは別なのでは
多世界解釈に適用されたロールズ的利己主義は重ね合わせ状態にある量子状態の値が観測前に確定していることを含意するのでは?
つまり、自分が行く方の分岐における値を真の値と見れば、それは確定しているということになるのでは?
量子力学の、ベルの不等式の否定による局所実在論の否定と矛盾するのでは?
宇宙破壊主義