ヒース『ルールに従う』第五章「選好の非認知主義」
経験主義的基礎づけ主義という敵は明確だけど、ヒース自身が採用する見解はそれに比べて明確ではない?
道徳言明の道徳的直観による言語参入手番は認められているか
// ある行為aが人Aについて「aはAのため(for)にはいい」という正当化をするとき、何を明示化しているか
そういえば中学校のときのクラスの目標? で目的について客観的な? 正しさがあるとは思わなかったので、(それでも何かそれっぽいことを書かなければいけないので妥協して)「後悔しないようにしよう」って賢慮の規範に属することを書いたのを思い出した
中1のときの社会か何かの授業でアマゾンの開発による森林の破壊について議論したときも、目的が与えられない上で客観的な議論を行うことはできないという趣旨のことを言おうとしたな(たとえば何か生物の新種が見つかると嬉しいなら、破壊しないほうがいいし、何か他の目的なら、開発したほうがいいかもしれない、みたいなことを言った気がする)
(そうしたら、この人新種とかよくわかんないこと言ってて話が進まないんだけどみたいに愚痴を言われた)
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
認識論的正当化に関する議論を実践的推論 (行為の正当化) に応用。
認識論における
文脈主義
スーザン・ハークの整合基礎づけ主義
ハークによる主要な功績は、1993年の『証拠と探求』において展開された「基礎整合説(英語版)」(foundherentism)と呼ばれる認識論的立場である。基礎整合説は、純粋な基礎付け主義(無限後退に陥る)と純粋な整合説(循環に陥る)がそれぞれもつ難点を避ける理論として考案された。ハークはこのアイデアをクロスワードの比喩で説明している。単純化すると次のようになる。: ヒントを手がかりにして答えとなる単語を探しだすことは、基礎となる根拠を経験によって得ることに類比的である。また、クロスワードで交差する単語は互いに影響関係にある(mutually sensible)が、これは整合性による正当化と類比的である。そして、これらの性質は両者とも知識の正当化において必要な要素である、と。なお、ハークの基礎整合説は、突き詰めていけば結局基礎付け主義に堕してしまうと指摘する研究者もいる
クワインの確証の全体論
認識論的外在主義
は、選好にも応用できる (信念と知覚経験との関係が、選好と身体的情動との間の関係に対応) という主張
基礎的信念と派生的信念の間の区別はアドホックで、文脈依存である
心理学の実験で、性的欲求と高所恐怖を”間違える”ようにできることが分かった(Wilson 2002, pp.100-102)
それは吊橋効果?
信念と経験の関係は、クロスワードパズルに喩えられる(Haack 1993)
クロスワードの、
ヒントが経験による正当化で、
すでに入れたエントリーとの整合性 (交差) が、信念同士による正当化 (整合性)
に対応
クロスワードパズルのあるエントリーはヒントによってより強く決定される (観察文?) し、またあるエントリーは他のエントリーとの関係によって正当化される (理論文?) が、その間の区別は質的なものではない。
ヒントによってある答えが強く決定されているように見えても、他の答えとの関係が十分に悪ければ破棄されうる。
クロスワードパズルがヒントのみによって正当化できないのは1つしかヒントを上げないという制約によるもので、全てのヒントを同時に考えれば、すでに入れた文字との関係に訴えずに解けると主張可能ではないか?
可能な配列を総当りするとか。人間はそのような解き方をしないだろうが。
その場合、答えが全体として、ヒント全体によって正当化されている
正確に言うとどの部分が基礎づけ主義一般への反論で、どの部分が経験論的基礎づけ主義への反論なのか
デカルト自身は道徳に関してはデカルト的基礎づけ主義を早急に適用することはなく、習慣に従うことを勧めていたが、最終的には道徳にも基礎づけ主義を適用すべきと言っていたそうである。
暫定的道徳(ざんていてきどうとく) morale provisoire(フランス語)
決定的道徳morale définitiveつまり形而上(けいじじょう)学の第一原理から演繹(えんえき)される道徳に対立する。したがって「暫定的」というのは単に「一時しのぎの」という意味ばかりでなく、「確固とした原理によって基礎づけられていない」という意味をもつ。真理の認識においてデカルトは、これまで受け入れた意見すべてを覆し、まったく新しく基礎から始めようとする。しかし毎日の生活は、一瞬の遅滞も許さない。理性が不決断を命令する間も「できる限り幸福に生きることができるように」デカルトは暫定的にいくつかの格率を定める。
その第一は、自国の法律と習慣に従い、幼時からの宗教を保持し、もっとも穏健な意見に従うこと。第二は、行動においてできる限り決然とした態度をとること。第三は、つねに運命よりもむしろ自己に打ち克(か)つことに、世界の秩序よりもむしろ自分の欲望を変えることに努めること。第四に、個人的な格率として、その全生涯を理性の開発に用い、自らの課した方法によって真理の認識においてできる限り前進すること、である。
これらの格率は、エリザベートあての手紙や『情念論』においてその個人的色彩を一掃し、新たに主意主義的観点から基礎づけられて、彼の晩年の道徳を構成する。デカルトは「諸学の完全な知識を前提とする知恵の最後の段階」としての「決定的道徳」を残さなかったのであるが、そこに彼の決定的道徳をみるのが普通である。それはもはや、「一時しのぎの道徳」ではないからである。また彼の道徳が、このような暫定的道徳にとどまらざるをえなかったところに、デカルトのモラリスト的側面をみることもできる。
Haack, Susan 1993 "Evidence and Inquiry: Toward Reconstruction in Epistemology"
「したがって、われわれが何を見ることができ、見ることが出来ないのかは我々の知覚システムによって決定されているのではなく、言語ゲームに参入するときに、われわれが行うことを権利付与されている参入手番によって決定されているのである」(p.246)
んー神経システムも重要だと思うけどな (cf. 色の恒常性) 言語ゲームが変わったところで、物体からの光の反射や、自分の網膜状態を「見る」人なんて居るのか、どうだろう
そのような訓練をすることは可能かもしれない
ヒースは知覚の信念形成説を支持しているために、持っている概念に応じて知覚が変わる、という結論を受け入れざるを得ないのではないか。
知覚に志向性があるような言い方をしたり、そうでないような言い方をしたりする。
ヒースが提案しているような、「φを欲する」を「φがいいだろうと思う」という信念の一種として扱うことは、ウィリアムソンが支持している:
https://youtu.be/hV_TI6g6Myo?t=1581
この動画は消えてるけど、知識ファーストみたいな話のつながりだった気がする。
デイヴィッド・ルイスは、「φを欲する」を「φが良いだろうと思う」という信念の一種として扱うことを検討し、それに対して生じる問題をあげている。
この説によれば「φが良いだろう」の主観確率と、「φを欲する」の強さが同じになる。
しかし、意思決定理論において、新たな証拠が入っててきたとき両者を更新する方法は異なる(信念の強さは証拠の強さに線形に変化するが、欲求の強さは非線形に変化する)。
ayu-mushi.iconそもそも理由を求めたり与えたりするゲームの枠組みだと、言語退出手番があるのは「Pしたい」「Pするべき」という形をした表象に限らないわけで、最初はみなオシツオサレツ表象のように記述的な内容と指令的な内容を両方持っているような気がするけど、なぜ記述的内容と指令的内容がわかれてくるのか
「火だ!」はそれ自体「逃げろ!」という指令的内容を持っている
「おいしい」
そもそもヒースの枠組みだと、欲求というのは言語退出手番 側に近い言語行為 (の心的対応物) っていうことになる?
surface cognitivism
「☓☓は○○に見える」というのを、「☓☓は○○」と同じ言語参入手番を持つが、それと同じコミットメントは持たないものとして分析する
「不死になりたいか」という選好とかだと、文化的な (個人的情動によって十分に決定されない) 面が大きそう。
しかし文化的な価値観に影響されるというのは情動主義に対する反論ではあるが基礎づけ主義に対する反論にはなっていないね?
私がこれを最初に読んだ時は、センスデータ理論や間接実在論への批判についてあまり知らなかったので、新しかった。
また、認識論についても詳しくなかったので、古典的基礎づけ主義への反論自体が目新しくて面白かったという記憶。
意図とセンスデータに共通する問題は、脳の中の小人?
「人が自分の幸福を予測するのに長けていない」
これは幸福概念がexpressive vocabularyだとしても可能なのか?