言論・表現の自由関連
利害相反に関する開示(conflict of interest disclosure): 著者ayu-mushi.iconは言論・表現の自由から大きな利益を得る立場にあります。
言論の自由の根拠 (主に帰結主義的/契約論的)
真理の促進:
検閲を行う力を持っている側が仮に正しかったとしても、社会的な力を持つことと信念が正しいことはそこまで相関しないので、検閲によって維持されている信念は良くて偶然正しいに過ぎない。
(たとえば専門家が検閲機関に勤めている場合などで、真理と権力が相関したとしても、それは力ではなく議論を通じて決めるという過程を、権力の座を決める際や、権力の内部で用いているということに依存して相関が成立してるに過ぎない。専門家の間での議論においてはやはり力に訴えないことが保証されていないと機能しない。誰が専門家であるかという基準を制定する議論自体は自由に行われなければ機能しない。)
Violence is a symmetric weapon; the bad guys’ punches hit just as hard as the good guys’ do. It’s true that hopefully the good guys will be more popular than the bad guys, and so able to gather more soldiers. But this doesn’t mean violence itself is asymmetric – the good guys will only be more popular than the bad guys insofar as their ideas have previously spread through some means other than violence.
壇上に立っている人が自分の意見を演説するのはどうか。それも自分が壇上に立っているのは偶然に過ぎないというのか (偶然ではない場合もあるけど)。
暴力、レトリック、検閲は、正しい側も間違った側も等しく用いることのできる武器、symmetric weaponである
いっぽう、議論を通じて意見を戦わせる仕組みによる決定の結果は、真理と相関する。賛成側と反対側の両者が議論を提示できることは、興味のある人がどちらが正しいかについて合理的な見解を形成するために必要だ。
正しい側に選択的に味方する武器、asymmetric weapon
What is the “spirit of the First Amendment”? Eliezer Yudkowsky writes:
>"There are a very few injunctions in the human art of rationality that have no ifs, ands, buts, or escape clauses. This is one of them. Bad argument gets counterargument. Does not get bullet. Never. Never ever never for ever."
Why is this a rationality injunction instead of a legal injunction? Because the point is protecting “the marketplace of ideas” where arguments succeed based on the evidence supporting or opposing them and not based on the relative firepower of their proponents and detractors. …
言論の自由規範の意義は:
個々の状況で自身の一階の信念に基づいて道具主義的に最適化しようとする (「本当はワクチンの危険性は統計的には重要なレベルではないのに、人々が反ワクチン論者による偽な信念に影響を受けると、人々の健康に害をもたらすので、反ワクチン言説を検閲する」のような) のではなく、体系的に望ましい結果 (人々が真なる信念を持つ) を生み出すシステムを維持することにより長期的な利益がもたらされることが、言論の自由規範の効果。
そういう場合、個々の行為を単独で評価してなく、長期的な規範の維持への影響を考えてる。具体的にはどういうことか。
帰結主義の場合:
一旦検閲を行うと、検閲してもいいという先例を作ってしまう。あるいは、応報に導く。
(秘密警察のようなものがない社会では、検閲があることをみんなに知らせずにこっそり検閲するというのは考えにくい(シャドウバンとかはあるけど))
積極的な応報という意図ではなくても、規範一般に、別の人、特に協力の利益を得る相手側が尊重しない規範を尊重しようとは人は思わないのではないか。たとえば、隣人も騒音を出しているのに、お前は騒音を出すなと隣人に言われても納得できない。人は囚人のジレンマで相手が協力していないときに協力しようとは思わない(実験ゲーム理論によると)。
滑りやすい坂論法に言うように、最初はまっとうな例外を認めただけでも、だんだんにまっとうでないところまで例外の範囲が拡大するかもしれない。これは上のように規範への尊重度合いが損なわれるケースではなくて、規範の内容 (範囲) の方が変化するケースに当たる。
言論の自由規範の重みが減ったゆえにそれによって別の考慮 (偽な信念がもたらす結果に関する考慮とか) が勝つ場合が増えただけに過ぎないと見るなら、滑り坂論法も規範の内容の変化というより尊重度合いの変化ともみなせるかも
思想の統制のための制度やスキルとかが、いったん作られると、当初はもっともな根拠から/公益を目的として/自分の味方によって行われたものだったとしても、別の根拠/目的/勢力にも転用される可能性がある (参照: ミル)。
また、人間の持つ認知バイアスのために、個々の事例について自分が持っている一階の証拠から判断するよりも、メタ的に、一般原則としてはどうか というふうに考えたほうがいいことがある。この場合、人は自分の信念を過信しがちというバイアスとかが問題になる。
この場合は規範とは言わないんじゃ?
悲観的メタ帰納法と似てるかも
囚人のジレンマでは、約束を守る主体は、相互に利益のある約束ができ、協力できる。検閲が厳密に囚人のジレンマかは分からないけど、似たような契約論的議論ができるかもしれない。
色々な意見の違いがある人々も、言論が一般的に自由であることからは真なる信念やそれに基づく意思決定の結果という形で利益 $ b_{自由}を受ける。
どの宗教の人も、他の宗教による弾圧は望まない。世の中には色々な議題があり、時間を通じて足し合わせると$ b_{自由}は多くの人にとって大きくなる。
もし個別の状況で検閲に訴えることが一時的な (その意見に基づくところの) 利益$ b_{検閲}をもたらすとしても、どんな人 i にとっても$ b_{自由i} > b_{検閲i}ならば、「言論の自由」契約を結ぶことはみんなにとって得だ。また、例外を作るような契約は、全員の同意が形成しにくい。
もちろん、順序はひっくり返りうるのは、誤った信念による悪い影響が極端に大きい場合 (たとえば、異教徒は地獄に堕ちると考えている人は、子供に自分と同じ宗教を強要することに強い利益を感じている)。
囚人のジレンマと同様、もし応報の可能性や「先例」効果、上のバイアス等を無視すれば、個々の状況になって約束を破るインセンティブはあるように見える。
$ b_{検閲}の側も色々な議題について足し合わせる必要があることに変わりはないけど、専制君主制でもなければ、すべての議題について権力を握っている1つの勢力があるわけではない (単一の政党も複数の勢力を抱える) し、権力の趨勢は変わることもある。(与党が変わっても憲法が変わるわけではないように、「権力の趨勢が変わったあとなんて、既存の約束が守られる保証がないので考えても無駄」ということにはならない。)
結論の正しさではなく、推論の妥当性に注目することと似ているかも(??)
「正しさと関係なく、ある種の意見が拡散されやすいバイアスがあるかもしれない」「嘘をつく側のほうが、話のパラメータの自由度が高いので、より広まりやすい話を最適化して作れるかもしれない」のような、どのようなシステムが体系的に望ましい結果をもたらすかに関する議論がありえる。
意見の自由市場 the marketplace of ideas のアナロジー:
自由市場では顧客によって商品が選ばれるので、消費者の目線でほしいと思う商品を提供できた企業が勝ち残る (ミクロ経済学での競争の概念では、競争によりみんなが価格を下げるだけなので、競争に勝ち負けとかは無かったような気もするけどそれは無視)。
一方、経済的自由という規範がなければ、消費者がほしいと思う商品かどうかではなく、企業が権力と結びつきを持つかどうかによって市場での勝ち負けが決まるだろう。
同じように、言論の自由が保証されると、少数意見でも表明でき、気に入らない人は反論することしかできないので、議論が起こり、議論の良し悪しによって意見の勝ち負けが決まる。一方、言論の自由という規範がなければ、意見が権力を持つ人 (多数派とか) に共有されているか、あるいは権力を持つ人に都合がいいかによって勝ち負けが決まることになる。
これは循環論法の危険を持つ? 現代人の私たちにとっては、私たちの意見自体が意見の自由市場から得たものだ。自らの信念と議論の勝敗を比較して、議論における勝敗は真理と相関していると論じることになる。(もっとも、議論の勝敗と真理の相関は弱い相関でも、権力と真理の結びつきより強ければいいのだから、あんまり強いことを言う必要はない。また、自分の意見 (結論) と議論の勝敗を比べて真理と相関してるか否か知るという方法以外にも、もっと原理的な議論もありうる。さらに、予測のように、正しさを外的にチェックできる場合もある。)
(友達に教えてもらった文献)
J.S.ミル『自由論』における言論の自由擁護への批判と、ルイスによる別の (契約論っぽい) 根拠の提示
検閲は無謬の審判者を要請する必要があるのでダメというミルの話はおかしい。審判者が一定確率で間違っていても期待値計算でプラスになることはありえる (これはミル自身も言及していることだけど)。
どちらが正しいのか本当に知るために自由な言論が必要という話についても、十分な時間自由な議論を行い、その後で知識を得たと思ったら検閲にシフトすればいいという反論がありえる。(これは "決着がついた話だから蒸し返すな" ということを言う人がいるのに似ている)
ホロコースト否定の禁止を支持する人は、すでに十分に議論が行われた、と思っているのだろう
(19世紀の物理学者は、物理学は完成した、と思っていたのだけど)
言論の自由を契約論的な規範として見る場合、一方の側だけによって擁護されるものではありえない (それだと、囚人のジレンマで一方だけが協力するみたいなものになってしまう)
つまり、たとえばある政党は環境保護を大事にしている、というような感じで、ある政党が言論の自由を大事にする、というようなものではない (どちらかといえば、政敵を暗殺しないというルールとか、選挙で負けた場合は潔く権力を譲るというルールとかのようなもの。政治的な争いの中で、このような手段 (検閲) を使わない、というルール。言論の自由規範は、政治的な争いだけに適用されるわけではないけれど。)
自由な言論のもとでは真理が勝つという話に対する疑問と、真理が勝つとは言えなくても言論の自由には価値があるとする議論
言論の自由に関するルールの明確化
今までの論拠は、「意見ベースの検閲」に特に反対する。
ありうる例外についての考察
言論の自由に対するミルの擁護を信じる人は、自らの論の性質上、言論の自由の敵に対しても耳を傾けなければならない
発言には共有知識をもたらすという効果もある。共有知識はコーディネーションを可能にする。
確率的テロリズム (stochastic terrorism)
Have you heard of the concept of "stochastic terrorism?" Or "Stochastic harassment?" Basically, it's the idea that if you have a big enough audience, you can point them at a target, and be relatively certain that your audience will do some form of harassment or violence upon them, without explicitly linking yourself to them.
information hazard (Nick Bostrom)
Langford's basilisk
SCP財団
虐殺の文法
Psychological reaction hazard: Information can reduce well-being by causing sadness, disappointment, or some other psychological effect in the receiver.
psychological reaction hazardは、デネットの志向的システム理論とサブパーソナル認知心理学の対比を思い起こさせる。
「見られてると分かって恥ずかしい」というのは、命題的態度によって感情を説明しているが、本来、命題的態度というのは、実践的推論のような論理的なウェブによる説明には寄与しても、世界の中の因果的な説明には寄与しない (と解釈主義者はいう)。因果的説明に寄与するのは、サブパーソナル認知心理学における表象の役割だ。
その考えからすると、特定の命題内容に対して性的に興奮するとか、恐怖を感じるといった因果的説明は不思議。
真な主張ではなく、論争的な主張ばかりが広まる。
その他
検閲の是非それ自体に対する議論への、検閲の影響。ミルは仮に検閲官の立場に立ってみても、言論の自由を説得できるとしている。つまり、検閲に反対するために、検閲されるような当の意見についての具体的な一階の議論をする必要はない。しかし逆に、検閲に反対するために、検閲される当の意見についての具体的な一階の議論に訴える必要があるとしてみよう。すると、それ自体が検閲されてしまい、検閲される状況から抜け出せない、「悪い均衡」に陥ることがあるかもしれない。そのような均衡では、検閲官の立場から見ると、検閲が完全に合理的かもしれない。検閲がそれ自体を安定化するケース。もちろん、言論の自由を擁護すること自体を直接的に検閲するのも当然、検閲がそれ自体を安定化するケースに入る。
逆に、検閲が完成しているために、人々は本当に危険な言論がなんなのかを知らず、検閲肯定側が論拠を挙げるのに苦労するかもしれない。タブーに支配された人々は、『完全犯罪マニュアル』とかの存在を思いつかないかもしれない。あるいは、知っていても言えないので、検閲を肯定する議論の方も難しくなるかもしれない。つまり、検閲がそれ自体を不安定化するケースも考えられる。(何を検閲するのかが分からずに検閲するとは?)
自由な言論に基づく科学の探求は、まさに他の手段では得られない確実性を得られるということのゆえに、「もう決着がついた」として、自分自身の足場を掘り崩すのか? (不確実性が、言論の自由の根拠の1つにあることを考えれば)
後知恵。後知恵でナチスや共産主義をあのとき弾圧しておけば良かった…ということは考えうる。(ここでも検閲したら悪い前例になるコストとかのほうが大きいと思うだろうか?)