「新反動主義」脚注
参考文献的なやつ
別ページなのにどこが「脚」注なんだ? というツッコミもありましょうが
ソースはこれから明示していこうと思うのでこの部分はどこソースか知りたいという人は私に言ってください 東インド会社のような勅許会社について
Also, the structure of the original "corporate colonialism" was hardly a smoothly-running corporate machine.
Apart from all the other problems of maintaining a multinational organization in the 18th century, remember that none of the colonial corporations were sovereign. They were creatures of domestic politics. They never had any kind of independent security.
As such they had incentive structures quite different from a sovereign nation-state. For example, the insecurity of their property gave them an incentive to destroy rather than conserve capital - ie, to loot and overtax.
I think European monarchies, defined as family-owned businesses, are generally better examples of the SSC paradigm, though certainly not perfect by any means.
(本当に主権じゃなかったことが勅許会社の問題だったのか、東インド会社は自分でうまくできなかったからイギリス本国政府によって救済されてたんじゃなかったのか(『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』にそう書いてあった))
A…distributed despotism? Is a decentralized Orwellian regime possible? If we can say no, we’re done. It seems impossible. Can we show that? We can’t, so let’s try to design one.
When the system fails and ranks are unclear, chaos ensues. And this goes for humans as well—not just individuals, but castes.
…
Instead there were two or more (I have lumped all the non-Brahmin elites in my “Optimate” caste, simply because otherwise there wouldn’t be enough to fill a decent ballroom) castes contending for the Big Chimp spot.
この記事ではカーストという名前ではあるが各カーストを順序付けすることは控えた、と言っているが、後にはBrahminをupper classと呼んでいる カーストという名前をつけて順序がないということはないでしょうね、通常
5. ただし、A氏とB氏が取引を行える場合はこの限りではない。
もし「「決定権を持つ人が選ぶであろう選択肢 (この場合アルファ)」 より多くの総利益を出せる選択肢 (この場合ベータ)」 があるならば、
「それによって得する人 (B氏) が、決定を行う人 (A氏)に、『A氏の相対的損失より大きくB氏の相対的利益より小さい額のお金』 (この場合900円より多く1000円より小さい額) を補償する」かわりに、
「A氏はベータを選ぶ」
ことを約束させれば、win-winとなるからだ
相対的損失、相対的利益は別の政策を取ったときとの利潤の差分の意味
合計税収が多いということから (選択ベータによる) Aが被る相対的損失 < Bが得る相対的利益 が従うので補償可能であることが分かる
約束を守ることが何らかの形で保証されている必要がある
または、B氏も同様の選択肢に直面しているとしてお互いにベータを選ぶことを約束するのでもwin-winになる
8. 本当に法の支配ができるのか? という問題
ヤーヴィンは、主権会社は、(主権なので) 何の法にも縛られない絶対権力を持ち、憲法のようなもので自分自身を縛ることもないという。
では、仮に法による統治を提供できたら収益を上げられるとしても、法をそのとおり行うというコミットメントをすることは不可能ということにはならないか? (法による統治を破ったときは居住者が離脱するからいいのか?) 1000年居ると決まってるということは、後ろ向き帰納法を使うとどうなるだろう。法律は空脅しではないのか。 もし法律の遵守が繰り返し囚人のジレンマだとすれば、後ろ向き帰納法で協力が不可能になってしまう
ゆえに、これは貴族にとっても王にとってもwin-winな取引となる
つまり、コミットメントのために権力の分立はあるのだ !
ヤーヴィンは、サーヴィスの利用規約みたいなものとして法による統治が可能だという。
(おそらく、主権者と言えども未来の自分に対しては責任を負うということが重要なのではないか?)
サーヴィスの利用規約は、企業が勝手に破ったら国家に訴えることができるから守られているだけなのでは
ピンカー『暴力の人類史』は広く、(反動主義者の主張に反して)暴力は減ってきたことを論じている(1960年代の逆転を除く) ただしスコット・アレクサンダーやピンカーが依拠する殺人の統計は、医療の発達によって暴行を受けた人が助けられるようになったため同じような暴行が殺人とカウントされる率が減っていることによって説明される可能性もあるため、本当に暴行自体が減っているか不明なところがあるようだ
According to new research, doctors are saving the lives of thousands of victims of attack who four decades ago would have died and become murder statistics.
The difference between a monarch and a dictator is that the monarchical succession is defined by law and the dictatorial succession is defined by power. The effect in the latter is that the fish rots from the head down—lawlessness permeates the state, as in a mafia family, because contending leaders must build informal coalitions. Since another name for a monarchist is a legitimist, we can contrast the legitimist and demotist theories of government.
11. state capacity libertarianismについて
「強い政府のほうがかえって自由を保護するのだ」という主張を取る場合、「経済的自由権の保証によって政府のできることに制限が加わるので、社会における権力の集中が避けられ、それにより少数の権力者の恣意的な判断や価値観に依存する度合いが減り、それにより経済的な自由以外の個人的自由、表現・報道・出版・宗教の自由などの保護につながる(…これって積極的自由みたいな概念前提にしてる?)」というふうな経済的自由の道具的正当化を取ることはできなくなるのでは?
こういう議論は結局 政治的自由というのと経済的自由の結びつきを考えており、そこでの政治的自由というのは自由民主制における政治参加の自由を大いに含んでいるので、民主主義を前提にしたリバタリアニズムの擁護論になっているのでは
自由主義の方が民主主義より前からある気はするけど
経済的自由を妨げれば必然的に他の諸自由も妨げることになるという議論は「結合論証」と呼ばれ、…
(この議論 (フリードマンが言っていた気がする) は計画経済への反対としては有効であっても、その他の政府介入にどの程度有効なのか、とかはある)
「ネオカメラリズムによって経済的自由が保たれるから良い」と主張するとして(そもそもネオカメラリズムによって経済的自由が保たれるというのが真かはともかく)、では経済的自由にはどういう価値があるのかと聞かれたとき、ネオカメラリストは権力の集中を避けるのような正当化を与えられないとすると、どういう観点から正当化するのだろうか。財/サービスの生産・分配の経済的な効率性の観点からだろうか。
「財/サービスの生産・分配の経済的な効率性の観点からだ」というのは一番ネオカメラリズムと相性が良さそうな回答である。なぜなら、ネオカメラリズムは税収に繋がる限りでの私有財産権の侵害は行うことがあり得るから、「無制限の自己所有権に内在的な価値がある」などを経済的自由を支持する理由にしてしまった場合、ネオカメラリズムにそれを保つインセンティブがない可能性があり、ネオカメラリズムだめですねという結論になりかねないから。
「それで実質的に (恩賜的民権みたいな感じで) 経済的自由権は保たれるとしても、その方法で経済的自由権を保ったところで、私がそもそも経済的自由によって実現したかった価値を実現してくれないのではないか」という文句
ヤーヴィンは、たまに自然権論的リバタリアニズムに浮気 (?) して、自己所有権それ自体が道徳的に望ましいという正当化を取っているフシもあるが、非自発的奴隷制について容認的な主張をしているヤーヴィンが、自然権論的リバタリアニズムを本気で信じているというのは疑わしい
ヤーヴィンのフォーマリズム(「新反動主義」Part. 3 フォーマリズム)を、自然権的リバタリアニズムの「自己所有権・労働所有論」の部分を「占有」に置き換えた義務論として解釈し、現状の占有権の保護そのものに内在的な道徳的価値があるとするイデオロギーとして読むというのはありうる しかしそれだとヤーヴィンが政体変更 (革命) を行おうとしていることと整合がつきにくそうだけど
ヤーヴィンは途中から全然リバタリアンではなくなってるし、そもそもなんでリバタリアンだったのかもよくわからない。現状の政府は非効率、無駄みたいな認識は共有されてると言えそうだけど。
(仮にネオカメラリズムが経済的以外の個人的自由を保護することが示されたとしても、ネオカメラリズム→経済的自由→個人的自由 という経路で因果関係が働いているのでないなら、「ネオカメラリズムが経済的自由を実現すること」にどういう価値・意味があるのかには独立の議論が必要になる)
ネオカメラリズム政府が利潤追求をせざるを得ない (余計な野心を被治者に押し付ける余地がない) ことが実質的に権力への制限として働き、結局権力の集中は避けられる、というような応答は考えられるだろうか ?
結局はイーロン・マスクが株式を買い上げたようなことをし、個人の恣意的な気分で支配するのを止めることはできないだろう (ヤーヴィンは、それはいいことだと思うかもしれないが…)
経済的自由を支持する理由として、「個人的自由と経済的自由は切り離せない」というようなことに訴える場合、「個人的自由と政治的自由も切り離せない」と言えてしまわないか (ヤーヴィンは「直接的な満足を目的としない、政府に影響を及ぼすことを目的とする道具的行為 ((*1)) を行う自由は政治的自由であり、個人的自由に含まず、内在的価値はない」と言っているが、経済的自由についても、
「直接的な満足を目的としない、お金を儲けることを目的とする道具的行為を行う自由は経済的自由であり、個人的自由に含まず、内在的価値はない」などと言われたらどうするのか)
政府以外の人を説得して影響を及ぼそうとする行為とかはどうなんだ
もし自己所有権がそれ自体内在的な道徳的価値を有するなら、デモやビラ配りを行う自由それ自体の内在的な道徳的価値が導かれてもおかしくない
シンガポールとかは経済的自由はあるが個人的自由はなさそうなので、かならずしも経済的自由の存在によって個人的自由が保たれるわけではない例になっていそう? (ヤーヴィンはシンガポールには政治的自由がないだけで個人的自由はあると言っているが、麻薬取締なども厳しかったはず)
別にリバタリアンは経済的自由は個人的自由の必要条件だが、十分条件ではないと言えばいいか (スウェーデンには個人的自由はないのか?) (別に反例がゼロである必要はないので、必要条件とか十分条件とかいわなくてもいいけど)
政治的な言論を行う自由に内在的な価値がないとしても、道具的な価値は十分あるだろうと思った (それ自体が争点だけど)
ベンジャミン・コンスタン?
ロールズが参照するバンジャマン・コンスタンやアイザィア・バーリンによると,思想の自由や良心の自由(コンスタンの言う「近代人の自由」)は,政治的自由(コンスタンの言う「古代人の自由」)のために犠牲にされてはならない.ロールズの理解では,彼の「公正としての正義」という構想も,思想の自由や良心の自由(近代人の自由)よりも,政治的自由(古代人の自由)の方が内在的価値は低いとする.
ヤーヴィン自身のwoke観によればそれはジャーナリズムと関係する民主主義の政府構造が原因という考えなのだろうれども、その分析が間違っているとしたら実際にはネオカメラリズム政体でもWoke Capital (企業がポリティカル・コレクトネスに走ること) になる可能性だってあるのではないか
というか仮にヤーヴィンの分析があってるとしても、政府構造が変わっただけでいきなり価値観が変わるわけではないだろう。もし仮に政府構造が人々の価値観の下部構造として影響しているとしても、それはじわじわとした影響でしかないはず
Fnarglはwokeになるけどパッチワークはwokeにならないかも
悪意あるアクターが居た場合どれだけ悪い策略を行うことが簡単かというある種のマキシミン/リスク回避/性悪説的思考をする場合、権力が集中している以上はそこが狙われる可能性があるという結論に変わりはない
現代の大きな政府において、民主的に選ばれた政治家を含むどの単一の政治的アクターも政府の全てをコントロールすることができないことは、ヤーヴィンは悪いことだと言っているが、どこか1つに最悪ケースが現れたと想定したときに大したことができないということでもある
ミルトン・フリードマンは大きな政府だと独裁者が現れたとき大変なことになるので小さい政府の方がいいみたいなことを言ってた気がするが、上のコーエンの指摘はその逆が正しい可能性を示唆してる
既存の政府機関のプロセスを破壊しようとするヤーヴィンのようなリバタリアンは貴族制を破壊しようとして権力の集中を強める独裁者と似たような危険性があるということでもありそう
Richard Hanania:
I think I might’ve identified as a state capacity libertarian at the start of the pandemic, but I’ve grown increasingly pessimistic about governance to the point that I assume the state will always be stupid and oppressive and making it more competent will only allow it to be better at being stupid and oppressive. Things like civil rights law, the war on drugs, and covid restrictions are more tolerable than they otherwise would be precisely because of slack in enforcement. …
12.
Specifically, a profitable, efficiently-run sovcorp—even in the degenerate and undesirable case of a single global monopoly—will operate a libertarian government which maintains Pareto optimality. My reasoning is that any Pareto inefficiency represents an uncaptured tax, which affects the Laffer curve but generates zero revenue.
13.
量の観点から考察してみよう。公共財の供給量をqとする。
量qに対するFnarglが支払う金額費用をc(q), それによる地球人の収入の増加をb(q)とする。
仮に税率が収入の30%を取るものだとしよう。
このとき、Fnargl は、0.3 × b(q) - c(q)を最大化するように、公共財の生産量qを決定する
この関数が上に凸だと仮定すると、微分が0なところに最大値があるはず。
つまり、$ 0.3 \frac{d b}{dq} - \frac{dc}{dq} = 0 で利潤が最大化される
よって、$ \frac{db}{dq} = \frac{10}{3} \frac{dc}{dq} つまり限界収益が限界費用の3.333倍になるqで生産を止めると考えられる。
これは社会的に最適な、$ \frac{db}{dq} = \frac{dc}{dq}(限界費用と限界収益が等しい)になるqまで生産するのより少ないはず。