集団単位で上手くやる方法を考える方向へ
誰か(あるいは、特に、自分)がまともであればいいとか、誰か(あるいは、特に、自分)が正しくあればいいという考えがある。この考えのなかには、個人が「リベラルと保守を往復す」ればいいという意見も含まれる。
その考え方に立脚した上で、久住哲.iconは、次のような考える。
個人単位にバランスを求めなくてもいい。あるいは、求めるべきではない。 誰かが突っ走り、別な人が彼の肩に手を置く。誰かが怖気づき、別な人が彼の背中を押す。そのような手のやり取りができればいい
「リベラル」と「保守」が共存した上で、その共存が力強いものとして保たれるような方法を集団は開発していくべきだ。 大前提
SNSなどでは次の大前提は崩れることがあるが、次の大前提は常に堅持されるべきだ。すなわち:議論は特定の集団のために行われる。
自分たちの旧来の方法を変更しなければうまく対応ができないところの、諸々の環境の変化といったものが起こりうる。その変化を先んじて見、先んじて対応策を講じることができる場合もあれば、その変化による旧来の制度の破綻が決定的になった後でなければ変われない場合もある。
以上のことから帰結される諸々のこと
なんらかの形の特定集団への愛(パトリオティズム)が無いところでの議論は無駄である。愛がなければ全て虚しい。 集団のバランスを保つために、集団内に決定的亀裂、決定的分離、決定的断絶が生じないような知恵を、集団内に保つべきだ。その知恵は倫理や礼儀などと呼ばれる。 革新がなければ、いずれ状況の変化に耐えられなくなる。 補遺
「特定の集団への愛」とのことだが、その「特定の集団」というのは、権利上は、家族であっても国家であってもいい、別に人類全体でもいい。だが、家族のなかでの話し合いと国家のなかでの話し合いを、ともに同じ方法で行うことはできない。ましてや、地球全体の場合、まだ誰も想像できない方法が求められるだろう。(それに類することはキリスト教やイスラームが実現しているのかもしれない。)