イデオロギーから距離を置くということ
前に同じタイトルの文章を書いてみたけど消してしまったので、少し変えて書いてみる。
右派にしろ左派にしろ、一つの政治的イデオロギーに囚われすぎて別の考え方の他人に不寛容になっているケースをネットでよく見かける。 自分だけじゃないはずなのだが、一つのイデオロギーに100%合致する人はほとんどいない気がする。
「この社会問題についてはリベラルの人々に賛同するし、別の問題については保守寄りの人々に賛同する」ということがよくある。
よくあるけれど、おそらく一つのイデオロギーに固執している人は本来の自分の考えよりも、型にハマったイデオロギーというパッケージの方を採用してしまっている。
自分は去年、保守主義にハマっていて、どんな社会問題を考えるにしても「保守ならどう考えるか」という基準でモノを考えていた時期があって、何となく怖くなった。
もちろん、とある社会問題についてリベラルと保守で同じ考え方を共有していることもある(ベン図でいうところの重なりの部分)。
そういう場合、もう一つのイデオロギーに固執せずに、「リベラルと保守を往復する」ということでいいんじゃないかと思うようになった。
これに近いことを今年の10月の始め辺りにアープラOCで開陳したら、アクティブユーザーの人に「東浩紀が再帰的保守ということを言っている」と教えてもらった。調べると『訂正可能性の哲学』でそういうことを書いているらしい。 そもそも宇野重規や仲正昌樹によると、保守主義というものは革新勢力のいきすぎた進歩主義に「ちょっと待て」とブレーキをかけるものだから、本来的に言っても「先に革新があってその後に保守が立ち現れる」。だとすれば、いちいち造語するまでもなく、保守主義というのは再帰的だと言えるのではないかという気がする。 これはノンポリとは異なる。保守主義とリベラリズムのポリシーの両方を有している。個人が両者の個人的に好む部分をいいとこ取りしていると言ってもいいと思う。 保守でありリベラルでもあるということ。どちらのポリシーも有しているのだから、少なくとも両者のイデオロギーの人たちに対して全く不寛容になるということもない。どっちつかずの優柔不断であるということ。
ずっと社会問題を考えるときの何らかの軸を持ちたかった。だからたまに政治系の本を読んだりしていたのだが、もうこれでいいんじゃないかと思うようになった。
前の文章では、イデオロギーよりも自分の良心の方が大切だと書いていた。政治思想云々よりこれを第一の基準にするべきだ。これは今も変わっていない。フランクルは『夜と霧』で人間には二つのタイプがいると書いている。 こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。
まともな人間であり続けるためにも、多分、イデオロギーから距離を置き続けるということは大切だと思う。