陽気な黙示録
fröhlichen Apokalypse(独)
概要
経緯
この期間のオーストリアは、ほぼフランツ・ヨーゼフ一世の治下にあり、対外戦争、各民族の独立運動、産業の発展による労働者階級の台頭と階級間抗争などにより、分裂と空洞化が極まっていった。第一次大戦の敗戦は崩壊の決定的な原因となり、大量の戦死者とハプスブルク王朝の消滅は世紀末の終末観と相まって黙示録的な出来事であった。 「価値真空」の中で
にもかかわらず/だからこそ、当時のウィーンの人々は「価値真空」の中で底抜けの陽気さをもちながら没落を予感し感受する英知をもっていた(装飾的な都市、カフェ文化、フユトンなどがその文化創造の源泉であった)。 用法
この言葉はさまざまな文脈の上で使用されている。ブロッホは黙示録を予感しつつもそれを陽気に甘受するウィーン市民への批判として用いているが、たとえば、W.M.ジョンストンは『ウィーン精神』において、1938年までの後世に多大な影響を及ぼしたオーストリアの偉人たちの創造的精神のことを指して用いており、『陽気な黙示録―オーストリア文化研究』においては、20世紀末まで延長したオーストリア文化を形容する言葉として用いられている。