趣味が哲学を規定するならば
デカルト主義は趣味に行きつく
パースがそれを書いていたような記憶がある
ある思想家がもつデカルト的な意味での「明晰さ」は、その思想家の主観的な感じである
普遍的な知性がその基礎にあるわけではない
哲学史上の思想的対立は気質のぶつかり合いである
と、ジェイムズがジェイムズ『プラグマティズム』で指摘していたように記憶する
これはメタ哲学的な指摘だ
思想的対立は理性的正統性をめぐる戦いだというのは自己欺瞞ではないか
仮にそういうかんじであるとしたとき
趣味の異なる者同士が同じコミュニティにおいて協働するようなあり方ってどういうものだろう?というふうに思う
/nishio/ものを作らない人は好き嫌いで定義され、好き嫌いは世界を狭くするなどを読み、ものを作ってゆくようなあり方かな……と思うようになる
他にも「実装なき思想は、もう要らない。」なども
ところが、こうなったとき、エンジニアじゃないとダメなのか?とか自己肯定下りがちになる
いや、なにも文字通りのハードウェア、ソフトウェアを作らなくても、人はなにか「もの」を作れるんじゃないのか……
nishio.iconハードウェアやソフトウェアは/nishio/人間増強の四要素の一つ(人工的)にすぎない
エンジニアは人工物に視野狭窄しがちだけど、それだけではない
そこで私が考えているのが、方法論を整備すること
事務仕事でいえば、行程に漏れが起こりにくいような様式の原本を作ることなど
各自にそれぞれ確信をもつ信念がある
宗教的なもの
道徳的なもの
人生論的な、実存的なもの
しかし、それは語りうるものなのか
ときどき語りたくなる。そして、それを語るときは不思議な落ち着きと興奮があるきがする
このロマンと方法論整備への動向との拮抗?がある