言語ゲーム
言語ゲームはヴィトゲンシュタインの中期後半から後期にかけての概念である。ヴィトゲンシュタインの概念の中でもかなり有名な概念だろう。言葉を知っている人は多いがその代わり、かなり誤解して使われていることも多いように思う。この概念が誤解されやすい理由は「言語」「ゲーム」というそれぞれの単語が簡単だからである。「言語ゲーム」という単語を聞けば、ヴィトゲンシュタインの勉強をしていない人でも何かしらのイメージが頭に浮かぶ言葉だからである。「超越論的観念論」であれば、勉強していなければ何のイメージも浮かばないだろう。(参照:哲学書におけるa=aとa=b) 言語ゲームは前期から中期を経て後期に至るまでのヴィトゲンシュタインの思考が凝縮した概念だとはじめ.iconは考えている。言語ゲームという概念を解きほぐすことはヴィトゲンシュタインの思考の全貌を掴むといっても過言ではないかもしれない。
言語ゲーム≒コミュニケーション
ここ最近はじめ.iconは何周か回って、言語ゲームはほぼ我々が使っている「コミュニケーション」という言葉と同義だと考えて良いと思っている。
まず第一に言葉による他者とのやり取りである。第二に身振りや身体動作などのノンバーバルなコミュニケーションも含んでよい。また言葉が他者の身体動作を促すという場合もある。
例えばヴィトゲンシュタインもよく使う例だが、八百屋に子どもがりんごを買いに行く状況を考える。子どもは八百屋のおじさんに「りんごを6つください。」と言うかもしれない。もしくは「りんご6つ」と書かれたメモを手渡すかもしれない。いずれの場合においても、八百屋さんは子どもの意図を理解し、手慣れた手つきでりんごを6つ袋に入れてくれるだろう。
このように人が複数いて、誰かが言葉なり身振りなりで表現をする。それを解釈した別の誰かがまた言葉なり行動なりを始める。これが言語ゲームなのである。
最初にコミュニケーションとほぼ同義であるといってよいと言った理由が少し伝わったかと思う。しかし、これを読んだ人は何かを理解した気になるだろうか。天下のヴィトゲンシュタインの中でも重要だと言われる概念が、たかだかこれしきのことなのだろうか。もちろんこれが全てではない。だが概念の「結果」としてはこれが全てである。行き着いた先としてはこれが全てなのである。
となると、言語ゲームという概念の真価はどこにあるかといえば、その「過程」にあると言えそうだ。言語ゲームをきちんと理解するためには、それが出てきた文脈や他の概念との関連性を知る必要がある。
言語ゲームに含まれる要素
そこで前期からの文脈も踏まえて、言語ゲームに含まれる要素をざっと箇条書きで挙げてみることにしたい。
言葉の意味とは何かという問題
具体と抽象
完全と不完全
相対と絶対
一般性を求める傾向、家族的類似性、イデア論論駁
『論考』批判
語りうるものと語りえないもの
兆候と基準
他者のふるまい
私的言語論
まだまだ他にもありそうだが、今挙げただけでもこれくらいの要素が関連している。そしてこれらは前期から後期に至るまでのヴィトゲンシュタインの思考してきたテーマそのものなのである。全てというわけではないにしろ。これが最初にヴィトゲンシュタインの思考が凝縮した概念である、と言った所以である。全ての要素をここで一挙に解説はできないが、追々別のページなどで触れることもあるかもしれない。このページは言語ゲーム論のベースとなるような位置づけになるだろう。
これらの要素は独立しているわけはなく相互に密接に関連している。だからこそ言語ゲームという一つの概念に凝縮できるのである。
というのも言語ゲームという概念が抽象論として言語で論理的に語られるのではなく、ある種の具体例的なものとして語ることで、逆にこのような多くのテーマを一挙に語ることに成功していると言えるだろう。
語りうるものと語りえないもの
これも言うまでもなくヴィトゲンシュタインの有名な概念であり、何となく聞いたことがあるという人も多いだろう。これは『論考』で導入された概念なのであるが、簡単にここに関連する限りでざっと紹介する。『論考』においては例えば倫理や形而上学などが語りえないものとされた。(語りえないものは実際には他にもある)(語りうるものに関しては『論理哲学論考』の言語観を参照) 言語ゲームという概念を導入することで、この語りえないものが語りうるようになる。
まず『論考』において言語は他者との会話のようなものではなく、言語単独にそのものとして考察されていた。いわば絶対的なものとして考えられていたのである。そこで出てきた語りえないものは絶対的に(他との関係性なしに)語りえないのである。
しかし言語ゲームにおいては他者とコミュニケーションが可能であればそれは語りうるものとなり、不可能であれば語りえないものとなる。つまり、語りうるものと語りえないものとが他者との関係性の中で(相対的に)決まるのである。
『論考』で語りえないものとされた倫理や形而上学なども、例えばお互いに哲学を学んでいる者同士であれば、言語ゲームを始めることができるので語りうるものとなる。逆に片方は哲学を学んでいるがもう片方が哲学を学んでいない場合、言語ゲームを始めることができないため、その話題は語りえないものとなる。
このように言語ゲームという概念の導入によって、前期と比べて語りうるものの領域が格段に広がることとなる。相手次第ではあるが、ほぼ100%と言っても良いくらいである。相手と言語ゲームを開始できさえすれば語りうるものになるのだから。
しかし、実はここで決定的に語りえないものが一つ存在する。言語ゲームに乗ってこないもの、欠落しているものといっても良い。それを以下で論じる。
言語ゲーム≠意思疎通
日本人ならば「コミュニケーション」という言葉を聞くとすぐに「意思疎通」という言葉が思い浮かぶかもしれない。言語ゲームが≒コミュニケーションなら、≒意思疎通と考えて良いのだろうか。否、断じてそうではない。ここがこの話の肝要な所である。
実は言語ゲームにおいて「意思」は疎通されていない。
言語ゲームに決定的に欠けているもの、それは「人の心」である。
精神、意思、内面と言ってもよい。
実はこういったものが我々のコミュニケーションには欠けている、というのが言語ゲームの最大の洞察なのである。
どういうことだろうか。八百屋の例で考えてみよう。
八百屋に買いに来た子どもの心はここでは問題になっていないのである。
「いや、りんごを買いに来たのだから子どもはりんごを欲しているのでしょう。」
こう思われるかもしれない。
しかしそうとは限らないのである。
子どもは親に言われて嫌々お使いに来たのかもしれない。
実はその子どもはりんごが嫌いかもしれない。
こういう可能性はいくらでも考えられる。
しかし八百屋さんにとってはそのような子どもの心は全く関係ないのである。
子どもが「りんごが6つ欲しい」というサインを何らかの形で外面的に示した。
八百屋さんにとってはそれが全てなのであり、それで十分なのである。
その子どものサインを解釈した八百屋さんはいつも通りに商品を用意する。
ただそれだけである。
この八百屋さんと子どもとの言語ゲームにおいて子どもの心のような内面的なものは一切関与していないのである。
言葉なりふるまいなり外面に現れること、言語ゲームにとってはそれが全てなのである。
これは八百屋さんの例のような単純な場合だけがそうなのだろうか。
否、考えてみれば我々のコミュニケーションのほとんどが実はこのような形式で進んでいるのである。
我々は徹頭徹尾相手の外面から判断するしかない。内面を見ることはできないのである。
「いやでも我々は相手の表情や言葉から相手の心を推し量っているじゃないか。」
否、相手の表情や言葉と相手の内面がつながっている保障などどこにもないのである。
「じゃあなぜ我々の日常は滞りなく進んでいるのか。」
我々がそういう生活形式を共通に了解して暮らしているからである。
このように我々は他者の言葉や身振りから他者の心を推し量っているような錯覚を抱きながら、日常を過ごしているのである。
これはまさに言語を使ったゲームをやっているようではないか。
ここにきて初めて「言語ゲーム」という言葉の威力が発揮されてくる。
言語ゲームにおける語りえないもの
言語ゲームにおいて欠落している「人の心」、これは言い換えれば言語ゲームにおける語りえないものが「人の心」であるといえる。
それではヴィトゲンシュタインは人の心を軽視していたのだろうか。
否、それは逆である。
彼にとって「語りえないもの」とは何よりも大切なものを意味する。
ヴィトゲンシュタインにとって「自分の心」は何よりも大切なものであったろう。
だからこそ日常のコミュニケーションでその心がおざなりにされていることを嘆いていたように思われる。
だがヴィトゲンシュタイン自身は、自分が作った言語ゲームという概念に「人の心」が欠落しているということには気付いていたのだろうか。
実は本人は気付いていなかった可能性すらある。
しかしテキストはそれを示している。
ヴィトゲンシュタインのテキストは執拗とも言えるほどに、心の周辺を心を避けるように迂回している。
『論考』における孤独な世界観から脱して、後期に至り他者との関係性に開かれていったヴィトゲンシュタインであるが、後期においてもなお残った「心」という壁。
いやむしろ他者との関りが増えた(量のみならず質的なものを含め)からこそ、気付いてしまったと言えるかもしれない。
彼の人生はいつも何らかの不満を抱えざるを得なかったのではないだろうかと思う。
これに比べるとラッセルは満足感が多かった人生なのではないかと思う。