哲学書におけるa=aとa=b
はじめ.iconは以前からなぜ哲学書が難しくなってしまうのかという原因を色々と考察しているのだが、哲学書におけるa=aとa=bを考えてみるとまた新たな考察が可能となる。
日常語の場合
まずa=aとa=b#61a3c84a76800f00004da1d0で言葉のa=aは我々の日常的な知識がベースとなっていることを確認した。当然我々は読書をする際にもこの言葉の日常的知識を前提に本を読む。哲学書の場合この前提が崩れてしまうのである。つまり、日常的な言葉を日常的な意味で使っていない場合があるということである。 例えば「経験」や「事実」という言葉は日常的によく使う言葉であるが、カントにおける「経験」やヴィトゲンシュタインにおける「事実」という言葉は日常的な意味とは少し違う意味で使われている。ここにa=aの崩れが生じているのである。a=aが崩れれば当然読みにくくなってしまう。我々の頭の中に予め普通の意味があるのでそれを当てはめて読もうとすれば、誤解が生じる。 「”少し”違う意味」と書いたのは全く異なる意味ではないからである。日常語との重なりはやはりあるのである。