a=aとa=b
a=a
同一律、自同律などと呼ばれる。トートロジーでもある。現実世界と記号の世界という枠組みでいくと、記号の世界での話である。「この世に存在しているものは皆全て同一律を内包しているんだ。」時にこういう意見もあるかもしれない。だがこれは人間が勝手に記号の世界の話を現実に当てはめているだけで、現実世界には同一律など関係はない。人間がいなければ同一律は存在しない。 記号の世界ではa=aは無くてはならない概念である。全ての記号使用の根底にあると言ってもよい。ここで基礎的という意味でピラミッドの比喩を使いたくなるが、それよりはヤジロベーの方が適切であろう。なぜなら、同一律は一点で記号の世界を根底から支えているからである。この一点が崩れると、有意味な記号使用は崩壊するだろう。無意味な記号使用のみが後に残される。
a=b
これは同一律でもトートロジーでもない。これも記号の世界の話である。現実世界にはaとbという異なるものが同じになることなどありえない。
a=bは自明な概念ではない。それゆえ導入する際には必ず何らかの言及をする必要がある。言及なしにa=bを導入すれば、これまた有意味な記号世界の崩壊を招いてしまうだろう。
a=aとa=bの対比
a=aもa=bも記号の世界の話であることは共通しているが、a=aは言及される必要がなくそこに示されているのに対し、a=bは言及される必要があり、語られる必要がある
数学におけるa=aとa=b
数学においても、上に書いたa=aとa=bの役割はそのまま当てはまる。ここではそれに加えて、式変形に焦点を当てa=aとa=bの役割を論じたい。
数学の式変形をどう捉えるかということについて大きく二通りのアイデアがある。
式変形をa=aと捉える
数学の式変形は基本的に=(等号)で結ばれていく。式の見た目は変形しているものの、等号で結ばれているからには中身に変化はない。ということは実質全て同じ式であり、a=aであるというわけである。この考え方は結局式変形はトートロジーであるということである。
式変形をa=bと捉える
式は等号で結ばれているものの、変形をしているのだから何らかの違いはあるだろうという捉え方である。こちらの考え方では、式変形を推移律として捉えることになる。つまり、a=b b=c c=d,,,,というように捉えるのである。
上でa=bを導入する際には必ずそれに言及する必要があると書いた。これをどう考えるか。これは数学の場合、規則を共有しているという点にある。数学の式変形を読んでいく場合は、読者に数学の知識があることが前提とされている。例えば、高校の参考書に中学で学んだ知識はいちいち書かない。それは知っている前提で書かれているからである。
文章におけるa=aとa=b
文章におけるa=a
文章におけるa=aを考えるときには、それが破られている場合を考えるのがわかりやすい。それが守られている場合は、自明過ぎて逆に見えてこないからである。例えば「リンゴ」という言葉で考えてみる。ある一つのまとまりのある文章において、普通リンゴはずっとリンゴである。しかし、文章の途中から急にリンゴがみかんに変わるとどうなるだろうか。しかも著者はリンゴのつもりで急にみかんという言葉を使い始めるのである。読者の頭は混乱必須である。
もう一つのケースとして今度は著者はリンゴという言葉は使い続けるとする。しかし、途中からリンゴの意味内容を勝手にみかんに変えてしまうのである。
(以下、便宜的に「りんごの特産地は青森」「みかんの特産地は愛媛」という経験的知識(常識)を固定しているものとして用いる。)
正常な文章:「りんごの特産地は青森である。一方みかんの特産地は愛媛である。」
同一律が破綻した文章:「りんごの特産地は青森である。一方りんごの特産地は愛媛である。」
つまりここで見えてくるのは、文章におけるa=aとは記号と意味内容との一致が保たれているということなのである。逆に破綻するとは記号と意味内容との一致が保たれなくなることである。前者の例は記号を変化させ、後者の例は意味内容を変化させることで同一律を破綻させている。
書き言葉においても話し言葉においても言葉を使う人が、教えられてもいないのにa=aを律儀に守っているということは考えてみれば不思議なことなのである。
文章におけるa=b
上の例を使って文章におけるa=bを考えてみよう。
「りんごの特産地は青森である。
これ以降私は「りんご」という単語でみかんの意味内容を表すこととする。
例えばこのような使い方をする。「りんごの特産地は愛媛である。」」
これは上記の同一律が破綻した文章に手を加えている。何が増えているかと言えば、a=bに明示的に言及をしているのである。全く言及をしていない上記の文章は紛れもなく破綻した文章であるのに対し、文章の内容は全く同じにも関わらずここでの文章は言及により論理的には整合性を取り戻すことに成功している。
つまり、a=aの破綻とはa=bになることなのである。
記号と言葉の対比からわかること
言葉が記号と意味内容とに二層化しているのがわかる。記号の場合、aはaのままで二層化しない。
言葉における記号と意味内容との結びつきは恣意的なものであり、必然的なものでは決してない。
言葉における同一性は我々の常識という経験的知識がベースとなっている。それは例えば「りんご」という単語で赤く丸いあの果物を意味するというようなことである。これは日本人で言葉を使える人であれば、100%共有している知識と言ってよいだろう。