西洋哲学史:ギリシャ哲学(懐疑派)
ソクラテスの弟子だったエウクレイデスを始祖とするメガラ派はソクラテスの対話術の弁証的、論争的要素を論争のための争論術(Eristik)にまで尖鋭化させた。 メガラ派のスティルポンは「感覚的確信は真理ではない」といい、真理が属するのは概念(普遍)であって個物ではないというメガラ派の命題を踏襲している。彼は「野菜とは、ここに示されているこのものではない。なぜなら野菜は何万年も前から存在しているからである。したがってこれは野菜ではない。」という。また命題は同語反復としてしか可能でないとみなした。 「人間は善である」とはいえず、「人間は人間である」「善は善である」としか語りえない。
なぜなら「人間も」「善」も概念としては同格であり、しかも異なる概念だからである。
ストア派やエピクロス派においては、彼らの実践哲学を根拠づけるために規準論や自然哲学が構想されたが、懐疑主義においては、いかなる定説的な学説も説かないことでアタラクシア(心の平静)の実現が図られる。 つまり、どのような学説にもそれと反対の学説が対置されるし、感覚や思考は事物の見え方や考え方を教えても、それがそれ自体においてもそうであるというところまでは教えない以上いかなる定説や学説も独断であると考え、そのため哲学者の取りうる正しい態度は、認識を断念して、いかなる事柄に対しても判断を差し控えること判断中止(エポケー)であるとした。 このように判断を中止するとき、もはやどの学説にも与しないのであるから、全ての執着から離れることになり、その結果アタラクシアが実現されると懐疑論者たちは説いた。 そのため全ての場合に断定的な定言を避け、「私の現れるところでは」とか「どちらともいえない」「おそらくそうかもしれない」とか「そうでもありうる」と語るのみで「何事も判断しない」というのが彼らの教えだった。
懐疑哲学の時代区分
前4世紀ー前3世紀 古懐疑派
前3世紀ー前2世紀 中アカデメイアにおける懐疑
前1世紀ー2世紀 新懐疑派
古懐疑派
創始者
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(前365-前275)エリス出身
アブデラ出身の哲学者アナクサルコスと共にアレクサンドロスの東方遠征に従軍した。
帰国後、故郷のエリスで自らの学派を開いたとされる。
著作は一冊も残さず、その思想はプレイウス出身の弟子ティモンによって伝えられた。 ティモンによると、ピュロンは幸福に生きるために人は
①事物がどのような性質を有しているか
②事物に対してわれわれはどのような態度を取るべきか
③事物に対して正しい態度を取るとき、そこからわれわれは何を得ることができるか
の3点を明らかにしなければならないとした。
そしてそれに対してはピュロンはそれぞれ次のように答えた。
①事物の本性をわれわれは知ることができない。
感覚が事物のそう見えることは教えても、それがそれ自体においてもそうであるというところまでは教えないからであり、思考も単に主観的なものでしかないからである。
②①より判断中止(エポケー)が事物に対してわれわれがとりうる唯一の正しい態度である。
③このように判断を中止するとき、いわばその付属現象としてアタラクシア(平静な心境)が結果する。
判断を中止するものにとっては、あるものがその本性において善であるか悪であるか判断する必要がなく、懸命になって追求するべきものも、逃れるべきものももはや存在しないからである。判断を中止することで心を乱すものは何もなくなり平静な心境のうちに生きることができる。
中アカデメイアにおける懐疑
古アカデメイア
プラトンの死からほぼ100年間は一般に古アカデメイアと言われ、この頃のアカデメイアは数学が重視され次第にピタゴラス主義的傾向を強めていった。
中アカデメイア
その後アルケシラオス(前315-前241)が継承した頃、彼とともにアカデメイアは懐疑主義と結びつく。
懐疑哲学が支配的であったアルケシラオスからほぼ150年間のアカデメイアは「中アカデメイア」と呼ばれる。
懐疑哲学の中期を形成する中アカデメイアではアルケシラオスの他にキュレネ出身のカルネアデスがその中心となった。
アルケシラオスは一冊も著作を残さなかったが、ストア派と論争するのに懐疑哲学を用いたといわれる。
ピュロンと同様に事物に対する正しい態度はエポケー以外にないと説いたが、それは行為の可能性までも否定するものではなく、ある認識が客観的に正しいか知ることができなくても行為することは可能であり、実際そのように行為している。倫理的に正しい行為をするには蓋然性で足りるとした。
一方カルネアデスは蓋然性の段階を①単に蓋然的な表象 ②蓋然的で同時に他のものに抵触しない表象 ③蓋然的で同時に他のものに抵触せず、あらゆる面から検証済みの表象の三段階にわけ、行為においては後者のより高い蓋然性を規準とすべきと説いた。
カルネアデスの懐疑論は定説的な方向にやや歩み寄ったものであるといえるが、他の点では懐疑哲学を徹底して説き、ストアの学説に徹底した批判を加えた。
また論証の可能性も否定したとされる。論証はある命題を前提にしてはじめて可能になることから、証明を完全なものにするためには前提命題そのものがさらに証明されねばならず、そうなると論証は不可避的に無限背進に陥らざるをえなくなる。
新懐疑派
アカデメイアはその後ストアの学説も取り入れるなど折衷的傾向を強めるようになり、懐疑主義は放逐された。
しかし紀元前後にもう一度ピュロンの懐疑哲学が復興される。この紀元前後から紀元2世紀にかけて標榜された懐疑主義を一般に「新懐疑派」という。
その代表者としてはアイネシデモス、アグリッパ、セクストス・エンペイリコスなどが挙げられる。
アイネシデモスの懐疑思想はピュロンとほど同じだが、彼はエポケーに至るのに次の「十の方式」をもってした。
①動物相互の違いに基づく方式
②人間相互の違いに基づく方式
③感覚器官の仕組みの相違に基づく方式
④さまざまな状況に基づく方式
⑤位置と距離と場所に基づく方式
⑥相互混入に基づく方式
⑦基に置かれるものの数量と構成に基づく方式
⑧関係性(相対性)に基づく方式
⑨出会う機会が頻繁か稀かということに基づく方式
⑩生き方や習慣や法や神話や教義上の見解に基づく方式
以上の十の観点からアイネシデモスは意見の不一致が必然的であることを示し、そのため事物に対する正しい態度がエポケー以外にありえないと説いた。
アグリッパは判断中止を帰結する方法として
①異論が存在すること
②論証は無限背進に陥ること
③相対性
④論証は仮定を必要とすること
⑤循環論に陥ること
の「五つの方式」を採用した。
セクストス・エンペイリコスは特に何か新しい懐疑思想を提唱したわけではないが、彼の現存する著作が今日懐疑哲学を知るためのほとんど唯一ともいえる資料である。
懐疑論はゼノンやソピスト、近代ではヒュームなど折に触れて繰り返しあらわれる。
哲学が人間の認識を「主観ー客観」の超越の構造の中に組み込んだときから懐疑は常に問い続けられている。
認識と対象の間に距離を発生させずにはいられず、その距離が絶えず認識に疑念を生じさせる。