第7回あーぷら哲学カフェ
https://gyazo.com/08eccd410ee706d0144564fdbcd123a2
日時:2022.7.3 21時~23時
場所:102号室
テーマ:「遊び」
司会:トーチカ
書記:名無し、cman、くま子
ルール
「ひとの話に耳を傾ける」
「専門用語はなるべく使わず自分の言葉で発言する」
「結論を求めない」
「わからないことは積極的に質問してみましょう」
「途中入退室は自由」
VCで発言する時は挙手をお願いします。司会が指名するのでそしたら発言をお願いします。テキストは拾って欲しい発言は挙手(「ノ」)してから書き込んでください。なるべく拾います。
コメント
素数計算する時遊んでますね 補足;素数は∞に存在すると信じられているので,時間つぶしに使えますという感じの発言
私は英語を書く時遊んでます
遊ぶ、というのは特にリターンを求めず、やっていることそれ自体で満ち足りていてそれでいいという意味でです
どこまでが遊びになるのかという範囲が気になります
対価が発生する時、遊びじゃなくなるように思います
大人は「女遊び」なんていいますが、そこには対価があったりしませんか?
女性にとっては遊びではなく仕事だ、という意味でですか
例えば男性が「女遊び」をするとして、お金を払ったり時間を消費したりはしますよね
「女遊び」を「海外旅行」や「落語」、「ミュージカル」に置き換えても同じですかね?
遊ぶ、という感覚はやっぱ“楽しさ”みたいなのと密接に関わっているかんじがします。でも学問をやることは“楽しい”けど“遊ぶ”じゃない感じもする。“気楽さ、気軽さ”みたいなファクターがぼくの場合あるきがします
楽しければ全て遊びですかね?研究も資格の勉強も仕事も
工業製品などで「隙間を作ること」「余裕を持たせること」を「遊び」と言ったりする
上達するまでは苦痛だといわれる遊び(囲碁など)がありますが、いずれ来る楽しみのために努力することも遊びに含まれるか気になります
格闘技などもある。遊びのスパンの長さも重要なのかもしれない
囲碁って上達するまでにも時間かかったり苦しい思いしたりするもんなんですか?
そのルールを理解するまでは白い石と黒い石が意味不明な形で並べられていくように見えるので、将棋、チェスなど比較的わかりやすいボードゲームより苦しいと聞きます
遊びの分野ではルールというのもよくでてくる
最初から「こんなものを得よう」「こんなことを学ぼう」と思ってやるのは、私の中では遊びではないです
大いにお金や時間を使った結果、虚しくても楽しかった。それが「遊び」かな、と
もちろん副産物として何かが残ることもあると思います
目的があると遊びっぽくなくなる?
確かに目的意識が強くあると遊びの側面は損なわれがちですね
弱い目的意識なら遊びとして許容される?
スマブラで相手に勝ちたい!ぐらいだと遊びっぽいが、プロゲーマーとして一位になりたい!となると遊びっぽくなくなる
遊びの対義語とかを考えると定義しやすいのかな?と思いました。仕事とか労働とかなのだろうか
遊びの対義語にはガチとか本気とかもあったりするかなって思います
確かに目的意識が強くあると遊びの側面は損なわれがちですね
強く力を入れる遊びっぽくない遊びもある
ガチ勢とエンジョイ勢みたいな分け方もある
遊びと趣味はちがうのでしょうか
趣味というか、暇つぶしは遊びになりうるかなと今思いました
プログラミング学習で、スキルを身につけるためのプログラミングと趣味で遊びでやるプログラミングをやっていた。学習のためのプログラミングは縛りがあって、それで出来ないものを自分でやってた。絵描きでも趣味の間は楽しかったが仕事としてやるとちょっと違う、みたいなことがある
遊びとゲームの違いとは…
踊る猫さんの意見と混ぜて考えると俺の出待ちの時の素数計算は暇つぶしなので完全遊びでやってますね(全く意味は無い)
遊びは目的意識が極端に低い。仕事は求められている領域がある。
ゲームは遊びの中の一種類かなーって思ってたけど、もうゲームを遊びじゃなくeスポーツやお金稼ぎ(ポイント稼ぎ)としてプレイする人もいるもんなぁ
趣味で 水泳やってた時に感じたんですが、わりとガチで泳いでトップに近い速度で遊ぶとその反動でいい感じに疲れて楽しかった
くらげみたいにふわふわしてるときは遊び感が強まり、型を決めて泳ぐと遊び感が弱まる。きめたりきめなかったりして適当にやると遊びかどうかもちょっとあやしい
自主的にやる、ということが大事なのかもしれない。
「自主的にやる」に加えて、「でもやるんだよ」という精神もあるかなと。くだらないと他人は言うかもしれない。「でもやるんだよ」
ゲームは遊びじゃねえんだよ!という文言がある。ルールがあって動作するみたいな操作的な遊びの部分と、本気でやるかどうかみたいな態度的な遊びの部分でわかれてる気がする
「遊び」にはどこか「相対化できる」けれど「自分から選んで『敢えて』行う」行為という意味があるように思います
あーぷらの運営は報酬をもらってなくて自主的にやってるだろうけど、遊びですか?
まぁあそびかも
金銭的な報酬ではなくとも、誰かからの信頼を勝ち取るという別種の報酬があるとも言えるのでは
GAFA経営陣は遊び感覚のような気が
”彼は遊ぶようにスマートに仕事をする”という歌詞がありますがちょっと関係しているかも?
仕事だったものが遊び感覚になるというものの変化で何が起こってるんだろう?
慣れかも。スキルも時間もお金もない時は必死に仕事に向かうけど、慣れると手を抜ける部分がある
嫌でもやらされる遊びとは遊びじゃない?
強制されると遊びという領域から外れちゃう感じありますね
日本語は多義的なので「遊び感覚でやる」にも負の側面と良い側面があるきがする。良い側面ではクリエイティブを働かせる余裕がある、といったところがある気がする。そういった自由がなくなると遊びからずれるのでは
強制されたものも取り組み方で遊びにできるかも
別の視点から言うと、私は読書も「遊び」だと思っています。ただ他人からマウント取られて「こんな本も読んでないのか」と言われて渋々読む読書は「苦行」です
読書会という神々の遊び
こんな長い角を生やす余裕がある、ということを見せて求愛する虫がいると聞いたことがあります。たくさん遊んでいることが余裕の証拠として見られることから、逆に、遊びがなにかを演出するための手段として用いられることもあるのではないかと思いました。 そう使われてしまった「遊び」はもはや遊びではなく、対価をえるための手段にされてしまっていそうです
遊びにはゆとりの感覚のようなものがありそう。その感覚があれば仕事でも遊びになるのかもしれない
哲学的な分野になってしまうかもしれませんが 人(性格や性質年代背丈や考え方)によって遊び方は大きく差が出るかもしれませんね
内向的か外向的かによって遊びの種類も変わる。人の性質によって何を「遊び」に許容出来るかは違ってくる。
伊集院静や村上龍の「遊び」と自分の「遊び」は天と地ほどの差があるかなと思います
今この哲学カフェのサムネを作っていますが、デザインはわたしにとって仕事であり趣味(遊び)でもあります。
遊びには「満足感」と「達成感」の中間くらいの感覚を求めるかもしれない
ストレスをどうにかするために機能として遊びがあるんじゃなかろうか
猫が捕らえたネズミなどの獲物をいたぶるのは遊びなのかな?
もずのはやにえは動物の遊びかなって思います
今ふと「万引き」は遊びかガチか考えてしまった。食べていくために(あるいは依存症のせいで)必死な「万引き」もあるだろうし、遊び半分な「万引き」もある、というだけの話かもしれないけれど
犯罪と遊びの関係というのも面白そう。いじめや荒らしも遊び感覚でやってた、みたいなこともある
今発言感覚が過疎ったり密だったりまちまちだと思いますがこの間隔も遊びなのかなと
既に言ってそうかもしれないけど、武道では「遊び」を作れと言われることがある。それは遊びとは余白のことだと思う。
うまく言えないのですが、ゆとりはガチと相反するものではないと思う。
本気で遊ぶことは可能
俺がタオタオウン(洋ゲー)で遊ぶ時はガチ(わりと本気)で架空の街を組むけど アレは密な遊び(本気 な遊びですね
ゆとりや余裕に関連して、貧しい人が対価である金銭を無視して遊びで働くことや、虚弱な人が対価である体力向上を無視して遊びでスポーツすることは難しいことから、その行為によって得られるような対価をすでに必要分持っていて、さらにそれ以上を求めること遊びになりうるのかなと思いました
「遊び」と「ゲーム」に違いがあるとすれば、「遊び」は無駄で終わりうるけど「ゲーム」では何かを育成させられる、成長物語の要素があるということかなと。もちろん両者はどこかで一致して「ゲームを遊ぶ」という表現になりうるわけですが
主観的に持つガチ/エンジョイみたいな枠と、メタ的に遊びかどうかみたいな枠がある気がする。強者には大体余裕があって遊びと割り切ってる場合もあるが、でもガチでやってることに間違いはない。
決まったことばっかりすると儀式になっちゃうので、その儀式をメタにみて遊びに解きほぐしていくのがおもしろいのかなーと
挙手の多様性を楽しむのも遊びか
メタ的なものに関連して、悲劇を鑑賞し嘆き悲しむことで逆に心が浄化されるというカタルシスを思い出しました
本人は本気で悲しんでるんだけど、メタ的に見ると劇である。本気で悲しむための遊び
感傷マゾという言葉がある。切なかったり苦しかったりすることを快とするのは遊びなのだろうか。
マゾヒズムは遊びの面もある気がする。痛みで遊ぶ。
俺の場合だと泣ける映画とか見ても論理的にぴったり当てはまらないことがあるので MGS3を3回クリアしないと泣けませんでした(憤怒)
本気で悲しむことを人間は避けたいけれど、ドラマや劇を通じて疑似的な悲しみを人間は求めているのは興味深いなと思いました。
免疫効果的なやつですかね?
ストレスを防ぐために先行して泣くみたいなかんじ
エシディシみたいなやつですね
シンプルですけど、人間って感動を求めますよね。心を動かしていたい。
動物はそういうことをしないのかな?
モーガンの公準っていうのがあってぇ……
動物は弄ぶ、人間は遊ぶ。かな?
動物はなんのために遊ぶんだろう。狩りのため?人間もキッザニアで職業体験したりするよね。
動物が「遊ぶ」か否かどうか、私たちは遂に「人間」なので想像して彼らにまず感情や価値判断を可能にする概念があるかどうか、そこから考えないといけないようにも思います
動物って疑似行為(演技とか劇とか)をしなさそうですよね。わからないけど。動物の遊びって、単純にボールを追いかけるとか。
疑似行為ってあたかも何々のようにふるまうってことですが、それは自分ではない何者かになるということを意味しますよね。人間は遊びで自分ではない何者かになることで、ストレス解消している時がありますよね。
俺はバ美肉でストレスを∞に発散している
娯楽を軸に遊ぶと言えるのであれば、娯楽を認識することができない動物は遊ぶことができず、弄ぶかな?と。なら娯楽を認識できてない赤ちゃんも同様に遊ぶことはできないことになりますが。娯楽への認識によって遊ぶか遊ぶかないか言えるのかな。と
よく言われる話ですが、「忙」は心を亡くすと書いて、それは感動が無い状態、遊びが無くなっている状態なのかなと。
忙しい時、意図的にふざけて気分をリラックスすることがあるかとおもいますが、形だけの遊びにも効果があるのかも?
一生遊び倒すというのも難儀な道なように思いますね その点仙人はすごいと思います
道草は遊び?通学は…?
本人が苦行と思ってても他の人が遊びと思ってる場合がある
そうですね。主観と客観にズレがある場合は確実にあると思います
遊びの定義が違うから向こうに悪意がない。自分の外向性やフィジカルを自覚してないので相手にストレスを与えてるという自覚もない。フィジカルの強さとかによって許容度や遊びの広さが変わる。
内向外向どっちでも言えて、能力がどのぐらいあるかみたいなのに関係して、「すでにあるのに必要以上求める」みたいなかんじのやつで説明出来るのかなぁと思った。
不死身だったら全部遊びに感じるのだろうか。それとも苦行?
ネガティブな感情や一時の努力をメタ的に遊びとして楽しむ文化も、「遊び」の認識の違いが人を傷つける土台になっているかもしれないなと
猫がねこじゃらしをかまったり、犬がボールを追っかけたりするのは、普通に遊びと言えそうですよね。彼らは楽しんでいそうだし。そしてそれは、生存するためには必須なことではないという点も、遊びと言えそう
猫がこちらにお尻を向けて座って反応を見ているのは、こちらがどう動くか不確定な要素を楽しみたいという「遊び」なのかなと思いました
ねこのあそびはいいぞ、癒される
子供の人形遊びは誰の視点に立っているのかいつも気になる
テレビゲームでのチート、だんだんつまらなくなってくる。
当人が遊びのつもりでやった。でも他者がそれは遊びの範囲を超えてるから虐めであると主張し、当人がそれを認めたんであれば、遊んだと自分が勘違いしてただけで遊びではなく、虐めだったとなり、偽の遊びなりますよね。そして遊んだと言う事実は抹消されることになるかと。他者からの評価によって遊びの形が変わるのではないかなーと
上記メタの話とも近い
第三者から見たら遊びではない
以前からよく見る光景なのですが、小学校低学年位までの男の子って、必ず誰かと闘ってるんですよね。しかも一人で。アニメか何かの真似をしてるんですけど。これを見るたびに、「こやつら遊んどるの~」とほほえましい気持ちになる。ヒーローになりきってる。
なりきる。これ結構大事な気がしてきました。
なりきりヘタだからやってみたい
悟空の真似をした子供は1000000人は下らないだろうな
かめはめ波を撃ったことのない男の子っているんですかね。笑
牙突やブラッディスクライドの方が現実的です。傘は痛みますが
傘だと、アバンストラッシュも出せますね。
アバンストラッシュは空気抵抗が大きいので封印してました。(傘が曲がってしまう)
なりきる遊びというと、TRPGとロールプレイング
チャットだけで遊んでた人達がいる。キャラクターとして楽しんでいるだけの人達。不思議だ。
TRPGの補足というかおもしろいとこ上げとくと、いくつかのシステムには、ルールブックに「セッション(ゲームプレイ)の勝利条件は、GMとPL、全ての参加者が楽しむことです」とルール規定があったりします。
シナリオ――ゲーム内でクリアするべき目標――の失敗成功とは関係がない、というのがおもしろい。
なりチャは場所によっては地獄(苦笑い
なりきっている最中は自分を弱めている。今の自分が苦痛を抱えていたり。世界に入り込むことで発散行為をしているのでは?
頭の中にキャラクターはおるよ複数
「遊ばざる者、働くべからず」という言葉もありますね。
当人は当時遊びであった、だが指摘され遊びではなくなった場合、過去の遊びというものは事実として残るのか、事実として残らず抹消されるのか。後者を前提とするんであれば、抹消されるのであれば遊びというものはそもそも存在しなかった。過去を振り返ることによって遊びが変化、上書きされ消えるんであれば、そもそも現時点で遊ぶということはできず、遊んでるつもり(未遂段階)でしかないのかな、と。
「遊びのつもりでした」先生に怒られたときによく聞く台詞。
動物は言語をもたないから「こうではなかった可能性」を考えることができず、したがって後悔することはないというような評論を読んだことがあります。 人間の遊びは逆に「今の状態ではなかった可能性」に触れることがとても重要ですね
TPRGの補足というか面白いとこあげとくと、いくつかのシステムには 「セッション(ゲームプレイ)の勝利条件は、GMとPL、全ての参加者が楽しむことです」とルール規定があったりします。
シナリオ----ゲーム内でクリアするべき目標の失敗成功とは関係がないというのが面白い。
とにわさんの田舎の友達のまーくんの話。積み木とか危なくないもので遊んでほしい
人狼ゲームとかサッカーとかそうなんだけど、攻撃性を開放することが許されるんですね。普段の生活では攻撃性はおおぴらには出せないから、代理で表出することで、心のバランスを保っているというのがありますね。遊びを通して。でもそこでの感情というのは遊びの中でもリアルなんですよね。
攻撃性を抑圧しているとうまく遊べなかったりするのだろうか(つぶやき)
人狼ゲーム教室で大流行してるなぁ。思春期、攻撃性を持て余してるのかな。
ゲームとかだと、ガチ勢になってくると遊びではなく、義務になってくることが多いのかな、と。常にトップランクでいなければいけないという負荷がかかって楽しむことができてないのであれば、ゲームを遊んでいると認識にはならないのかなーと。遊んでる(楽しいなどの感情)<<苦しい、義務、負荷。などの負の感情が楽しみを上回った瞬間、遊びではなく別の何かになるのかな、と。YouTuberのゲーム配信だと遊びではなく仕事になりますし
義務になると遊びじゃなくなる?
自分もゲームをよくやるのですが、その時に大切なのは勝ちを求めすぎないことなんですね。勝ちを求めすぎると楽しさが無くなるので。
宝石の煌めきログたまに覗いてニッコリしてる
大体のゲームには勝ち負けがあるが勝ち負けと遊びの関係を考えるのも面白い
一方で「勝ちたい」という気持ちになるゲームではないと、面白くないというのもありますよね。そのバランスが難しいなと。
『オツベルと象』、オツベルは象を鎖に繋がず遊ばせるように作業させたらうまくやれたのではないかと思います
山本太郎が選挙カーでメロリンキューの扮装をやるのは遊びなのかガチなのか理解に苦しむ
猟奇的殺人犯は遊んでいるのか…
逆に仕事など、一般的に遊びとは言えないようなことも、当人が仕事は苦しい<<仕事は楽しい。という感情になれば、遊びになるのかなと。遊びの対象となる媒体によって遊びかどうか決まるのでなく、遊んでる本人の向き合い方や感情によって変化する、のかなと
よく言われる「趣味は仕事にすべきではない」というのも「遊び」と関係してそうですよね。趣味を仕事にして楽しめる人とそうでない人がいるなと。
部活は遊び?楽しんで良い?笑うななどと言う顧問もいたが…
部活を楽しむなというのは合理的じゃない。学校側が提供しているものなのに。
放課後ティータイムの面々みたいな部活はどうなるのか……
卓球部でしたけど、ガチで練習してましたし上手くいかなすぎてめちゃくちゃ泣いたし最悪だ……と思ってたけど結局楽しかったな。球打つの好きだったし。今でも卓球したくなる。
なりきりと部活は関係ある?
部活でソロを弾いた時なりきりが足りなかった気がする
部活での行動って本気になりきる遊びではないか。ゲームでもそうなんですけど、本気になりきって本気でやってる人を演じることで普段本気じゃない人が本気になることで強く感情が生まれる
後腐れなく離脱できるのも遊びの楽しさの要素なのかな
「あいつとは遊びだったんだよ」某モテ男の台詞
私の世代クールなのが同調圧力だったすなーはっちゃけたりない私
戦争は遊びじゃないだ!とか指揮官が言っても、言われた側の兵士が遊びだと思えば当人にとっては遊びだし、自分の価値観を押し付けて相手の遊びを否定することもありますよね。そう言った場合「知らねーよ、お前(指揮官)の感想だろ」にしか過ぎないですよね。あまり関係ない話ですがw
工業製品、たとえば車のハンドルに遊びをもたせるとか、そういう「遊び」の概念もありますよね。
あと9分でこの哲学カフェという遊びが終わりますが…笑
まぁつまりまとめるとみんなでTRPGしようぜ!ってことか。(違います)
哲学カフェって、ちょっとずつみんなで(絵柄が揃っていなくても)パズルのピースをあちこちから持ってきてだんだんそれを繋げていくみたいな感じですね道徳の授業にも似た雰囲気?(あくまで雰囲気)
教師「つまんなさそうな顔をするのはよくないと思います」は?と思った
人生とは遊びなのでしょうか?
哲学じゃん
ひろゆき曰く遊びや暇つぶし
遊びたいなあ
ホモ・ルーデンスやん
おもしろきこともなき世をおもしろく住みなすものは心なりけり
哲学は遊びに過ぎないのか
哲学の語源
崇高ですごいのがすこってことね
遊ぶ対象物が何か。当人のモチベ、感情。他者からの評価。この三つの要件を満たした時、私は遊びと言えるのかな、と。遊びの構成要件は人によって違いますが、ただどの超えた、犯罪、反社会的、インモラル、なものが遊びの構成要件に含まれた場合、含んだ相手に対してそれは遊びじゃないんだ!と自分のエゴを押しつけていいのかな、と。自分や社会が定めた正義や基準が絶対的ではないですし。遊びというよりかは、エゴを押しつけていいのかの話になってますがw
そもそも確実に遊びではないものとは?
遊びでないもの、でないものが遊びなので、確実に遊びでないものとは、遊び以外のものですね(言葉遊び)(混乱)
小泉
小泉構文
進次郎!
ぎゃー
人によっては拷問ですら遊びになる可能性もあるんだよなぁ…
視点をどこに持つかによる
負けたら死ぬようなデスゲームは遊びではないのか
ひろゆき「なんか今のって遊びじゃなかったんすか? 傷負ったけど 楽勝でしたね」
遊びは人間社会に必要不可欠!!
仮に私の構成要件に先程述べた、一般に悪いものが含まれていて、他者からそれは遊びではない、犯罪だ!と言われた場合。私は遊びではなく、犯罪だと再認識することができるのか、できないのか。それによって善に行くか悪に染まる変わるのかなと。また遊びではなく、他者からの評価から自身を見直すことができるのかどうかの話になってしまった…
日々遊びを見つけよう
遊べ!遊べ!(滑り込む)
あそびあそばせ
遊んでるかい?(きよしろう)