概念と名称(会話と注釈)
作業メモ
会話文は終了
注釈作業は残っている
このページは何?
以下の会話文は、DiscordのVCで読書会を開催していた人(A氏)と、そのVCに入って雑談をしはじめた人(B氏)とのあいだで行われた会話という体裁で書かれた。
フィクションであり、A氏もB氏も、話されている内容も、実在する人物とは関係がない。モデルもいない。
注釈
発言には注釈が書かれることもある。注釈は、下行でインデントした上で書かれている。
それらの注釈も含めた全体がひとつのコンテンツであるが、注釈を飛ばして、架空の会話だけを読んでも十分(楽しめる)だろうと思う。
会話の内容
主題は〈概念〉である。
新しいことは書かれていない。多くの人にとってどうでもいいことが書かれている。
以下の架空の会話を書くことで、久住哲.iconが何をしたいのか分からないという人が多いだろうと思われる。以下で久住哲.iconがしたいことは、〈あるものが何であるか〉とはどういうことか、の解像度を上げることだ。
この「〜とは何ですか」ということで、いったい何が問われているのかをはっきりさせたいというのが久住哲.iconの狙い、だろう。たぶん!
―――
A氏がDiscordのVCで読書会をしていると、B氏が入ってきて雑談をはじめた。雑談ばかりするB氏に対してA氏が「雑談は控えてください」と注意したところ、B氏は「どうしてだ?」と不満を漏らす。そこで、A氏とB氏は議論をしはじめる。……
A「あなたは読書会に参加しましたね」
こう言ってA氏は〈読書会という企画へのコミットメント〉の話をしようとしている。
A氏はこう言うことで、B氏のコミットメントについて本人から確認をしようとしている。
B「そうだ」
A「ではどうして雑談をするのですか?」
A氏は以下の推論を行っている
ある人が読書会にコミットしたならば、その人はこれほどまでに雑談をするはずがないだろう。
しかし、その人は雑談ばかりしている。
ということは、その人は読書会にコミットしていないのかもしれない。
だが、その人から読書会へのコミットメントについての確認がとれた。
であれば、読書会へのコミットメントと、雑談ばかりすることとを両立させるような、A氏には想像できていない特殊な――A氏にとっては特殊な――事情があるはずだ。
A氏はこのような発言をすることでB氏を非難している。
明確な非難ではない。
返答次第では、本格的な非難を開始しようとしている。
だが、〈本格的な非難〉が何になるだろうか?
B「読書会で雑談してもいいだろう」
A「読書会にコミットするならば、そこで雑談をするべきではないという意見にもコミットしなければならないでしょう」
読者はここで、「コミットって何やねん」と思うだろう。あるいは、「コミットの使い方違うくない?」などと思うかもしれない。
B「なぜ?読書会で雑談するのもありだろう」
B氏は、読書会において許されている行為に言及している。
B氏は、読書会にコミットした上での資格について話している。
A氏は、B氏が資格の話をしたのに、意図的にそれをねじ曲げて、当為の話をしようとしている。
当為の話は、資格の話よりも、いわば強い。
当為の話とは、読書会に参加した人が何をする【べき】かについての話だ。
資格の話とは、読書会に参加した人が何を【していい】かについての話だ。
B氏は、A氏のややねじれた返答に即座に気づき、同じ言葉を繰り返す。
B氏は、自分が最初に言ったことが適切に扱われていないことに気づいており、再び同じことを言うことで、今度はしっかりと扱ってもらおうとしている。
相手が発言をまともに受け取っていないので、繰り返している。同じ発言を繰り返さないということは、相手の応答の仕方を認めたことになってしまいかねない。B氏はそれを察知している。
A「読書会に参加して、そこで雑談するのはありですが、雑談しすぎるのはいけないし、本の話と雑談とのどちらを優先するべきかという問題があった場合、本の話を優先するべきだという意見にはコミットしなければならないでしょう」
A氏は軌道修正している。
〈読書会の会場で雑談をするべきではない〉という強い意見を撤回して、本の話と雑談とのどちらを優先する【べき】だろうかという議題を提示している。
A氏は、読書会においても雑談することは認められると、認めている。
ここでA氏は、B氏の最初の発言「読書会で雑談してもいいだろう」に対してYESと答えたことになる。
A氏はここから、どうしてB氏に非がある(とA氏が思ったか)を論証しなければならない。
もしも〈読書会では雑談するべきではない〉という意見にB氏が同意したならば、B氏に非があることを、B氏自身が認めたことになり、A氏がB氏の非を論証する必要はない。
A氏が最初に「強い」働きかけをしたのは、B氏に非があることの論証を省略したいがためだろう。
だが、B氏はそこまで扱いやすい人物ではなかった。
A氏は、読書会へのコミットメントから帰結する別なコミットメントをB氏に見えるようにしている。
この架空会話が書かれたきっかけはブランダムの「敷衍的責任」を説明するためであったのだが、このような、あるコミットメントから敷衍的に見えるようになるコミットすべき意見を「敷衍的責任」という。
B「私は読書会に参加することにコミットした覚えはあるが、そこで雑談より本の話を優先することにコミットした覚えはない」
B氏は、敷衍的責任を否定している。
B氏による敷衍的責任の否定は、いくつかに解釈しうる。
B氏は敷衍的責任といったものが有効だということ自体を否定している。
この話の筋は、久住哲.iconが昨日ミリンダ王の問答について読んだことの影響を受けている。 例えば、ナーガセーナは焚き火の喩えを話す。ある男が暖をとるために焚き火をして、火を消さずにその場を去ったところ、他の男の畑が燃えてしまった。犯人の男は「自分が焚いた焚き火と、畑を焼いた火は別ものだから、私は裁かれるいわれはない」と弁解する。たしかに、焚き火の火と畑を燃やした火は別なものだと言える。そして、男は焚き火の火を扱ったのであって、畑を燃やす火を扱ったのではないと言える。だが、焚き火の火がやがて畑を燃やしたのだと、人は考えるだろう。そして、畑が燃えたのはその男の所為だと判断する。ミリンダ王もそう判断した。
Wikipediaの説明を読むかぎりでは、男が裁かれなければならない理由は「焚き火段階の火と野火段階の火は切り離して考えることができないのだから」である。これであなたは納得するだろうか?久住哲.iconは納得しない。なぜなら、〈切り離して考えること〉はできるからだ。すなわち、物の同一性が、その物を構成する要素の同一性であると考えたならば、ある瞬間の火と別な瞬間の火が同じものであることはできず、そうであれば当然それらを〈切り離して考えること〉ができるからだ。問題は〈できるかできないか〉ではない。ここには、さらに言語化するべき何かがある。それが何かといえば、あることを認めたことから敷衍される、それとは別なことを認めるべきであるという、責任があるということだ。そして、このような敷衍的責任には根拠がない。〈切り離して考えることができない〉というような、現象側あるいは思考者側に属する根拠はない。
敷衍的責任というもの自体を否定することは可能だと久住哲.iconは考える。
ただし敷衍的責任というもの自体を否定する人とは〈議論にならない〉
B氏は〈読書会にコミットする〉ということから〈雑談より本の話を優先するという意見にコミットする〉という、まさにその「敷衍的責任」が生じるということを否定している。すなわち、その個別推論の妥当性を否定している。
A「では、あなたは読書会に参加しているのではなく、読書会に参加している人たちと雑談をしに来たということですか?」
A氏はここで、2つのコミットメントを区別し、B氏が後者にコミットしているのではないかと聞いている。
1つめの主旨は〈読書会への参加〉である
2つめの主旨は〈雑談〉である
読書会には参加者がいる。この参加者たちと〈雑談をしたい〉場合、このコミットメントにおけるかぎり、B氏はなにも間違ったことをしていないだろう。
彼は雑談をしたくてそこに来て、そして雑談をしている。
B氏の振る舞いが問題になりうるのは、彼が2つめのコミットメントではなく1つめのコミットメントを宣言しているからだ。
B「ちがう。読書会に参加しに来ているのだ」
B氏は、A氏の誘いに乗らない。
A氏の誘いとは、雑談へのコミットメントに肯定することへの誘いだ。
B氏がA氏の誘いに乗った場合、B氏は次のように言われるだろう:「そうですか。しかし、ここでは今雑談ではなく読書会をしているのです。なので、もしも雑談をしたいなら、他のVCに行ってはいかがですか?」
こう問われたB氏が、それでもなおその場に留まろうとした場合、A氏は次のように追撃するだろう:「あなたがこの場に留まりたいのはなぜですか?つまり、他にもVCがあるのに、あなたがまさにこのVCで雑談をしたいということには理由がありますか?」
ここでA氏はB氏に向かって正当化責任を果たすように迫っている。 ここでB氏が「特定の誰それと話をしたかったから」と述べたならば、A氏は次のように言うだろう:「そうですか。では、誰それさんに聞いてみてください。読書会を抜けて雑談をしてもいいかどうか。誰それさんが読書会よりむしろ雑談したいのであれば、私は止められません。しかし、こういったことは、私からすれば、読書会に参加しているメンバーを1人奪われてしまうような形になります。これは一種の妨害であり、やめてほしい」
あるいはB氏が「別に理由なんかないけれど」と言った場合、A氏は次のように言うだろう:「では、理由もないのに、わざわざ読書会をやっているところに乗り込んで、その参加者に雑談をもちかけたんですね。もしも私たちが読書会をしているということをあなたが知っていたとしたら、そこに悪意が認められます。企画の妨害です」
このようにしてB氏の非が論証されることになる。
B氏は、自らの妨害意図が「論証」されたことを認めないかもしれない。
B氏は、自らの妨害意図が論証されたところで、平気かもしれない。
もしB氏が「仮に俺に妨害意志があったとして、それがどうした」などと言うならば、A氏はそのDiscordサーバーのモデレータに「企画がB氏によって妨害されている」と報告する口実となる。
そこでA氏はモデレータに次のように言うだろう:「B氏は、自らに妨害意志があり、その自らの意志にもとづいて行動したとしても、自分の行動には問題がないと判断している。悪に対して開き直りをしている。話にならないので、実力対処してほしい」 B氏はモデレータに報告された結果、いわば警察的な処置の対象となるだろう。
もしもモデレータが、報告したA氏に対して「悪意があってもいいじゃないですか。うふふ」といった返事をした場合、B氏はそのまま平気でいるだろう。
B氏が平気でいつづけられるかどうかは、次のことに依存する。
Discordサーバーのモデレーション方針
周囲のユーザーによる村八分
B氏がそのサーバーにいつづけたいかどうか
B氏は、A氏の誘いに乗ると自分が議論上不利になることを察知している。
B氏は、A氏が提示した〈2種類のコミットメント〉というアイデアを退ける。
B氏ははじめから1つのコミットメントしか述べていない。
B氏はずっと〈読書会に参加する〉という自らの主旨しか述べていない。
この戦略を崩すと、自分が議論で追い込まれることを、B氏は知っている。
A「だとしたら、あなたは不合理です。あるいは、読書会が何なのか分かっていない」
「不合理」とは「合理的」でないということだ。
A氏の結論は2つの選言である
1. B氏は全体的に不合理な態度をとっている。
2. B氏は読書会が何なのか分かっていない
すなわちB氏は読書会の概念を掴みそこねている。
この〈概念の掴みそこね〉がこのページの主題である。
A氏はB氏に読書会についての正しい概念と合理的態度とを期待している。
正しい概念と合理的態度のどちらかが欠けていても、B氏はA氏の話を正しく聞き届けることができない(とA氏は考えている)
A氏は、B氏が読書会の概念を正しく理解しておりかつ合理的な態度をとっているならば、B氏が自分の言葉を聞くに決まっていると思っている。
B「なんだって?読書会が何かくらい分かっている。君に何が分かるんだね?」
B氏の不満は次のように言い表せる
B氏はB氏なりに読書会についての概念を形成してきた。それを無下にされるのは腹が立つ
A氏がB氏の理解度を測ることができると考えている思い上がりに腹が立つ
B氏はA氏が「あなたは読書会が何なのか分かっていない」と言ったことに対して、「いや分かってる」と答えているが、このとき、A氏の発言意図を訊ねていない。
A氏の論点は、〈B氏が読書会の何たるかを知っていれば、B氏が読書会への参加を表明しつつ同時に雑談ばかりしようとはしないはずだ〉というものだ。
A氏は、〈B氏が「読書会への参加」という名を用いてはいるが、その名の使い方を間違えている〉と言いたい。
B氏は「読書会への参加」という言葉を使いつつ、それが表すべきこととは別なこと・別な概念にコミットしている。
言葉の意味を勘違いすることはよくある
〈佐藤は退勤しました〉ということを言いたくて「佐藤は出社しました」と言う新人社員がいるかもしれない。
A「私は読書会についてのひとつの概念を持っており、それによれば、読書会にコミットするということは、一般的な会話とはちがい、本についての話をした方がいい。少しも雑談してはいけないというわけではないが、全てが雑談になってしまってはいけない」
B「それは君の定義だろう。私は別な定義を持っている。その定義では、読書会に参加することは、雑談をすることも含むとなっている。ゆえに、雑談することは問題ではない」
A氏も、読書会の場で雑談すること自体を問題視してはいないのだが、B氏はそれを意図的に無視している。
B氏はA氏の主張を単純化して、A氏が〈読書会では雑談してはならない〉と主張しているかのように見せかけようとしている
A氏は〈読書会の場では雑談をするな〉とは言っていない
A氏が言っていること
雑談をしていいか悪いかの話はしていない
「べき」の話をしている
本についての話か雑談か、という二択があったら、本についての話が優先されるべきである
読書会といっておきながら、その内容の90%が雑談であるならば、それはおかしい
B氏の正しいところ
読書会の定義について、この2人のどちらかに絶対的な決定権があるわけではない。
ここでの問題点
読書会の概念が両者の間で異なっていること
片方の概念では〈すべきこと〉が、もう片方の概念では〈すべきでもないこと〉となっている
概念の食い違いがあると、2人で同じものに取り組むことができない
2人は共にそこにいながらして、共にはいないことになる
A氏もB氏も相手の概念に譲歩するつもりがない
自分の概念把握について相手に譲らないことは、問題ではないかもしれない
B氏は、自分が言葉の定義を行えると思っている
A「私がしたいのは読書会Aです。あなたがしたいのは読者会Bです。私がしたいと思っている読書会Aでは、本の話を雑談より優先すべきなのです」
A氏のこのやり方はまずい。
A氏は、自分の概念とB氏の概念とが異なるということに気づいており、この概念の相違に合わせて、名称をも異なるものにするという、奇妙なことをしようとしている。
名称と概念との関係というテーマがここで導入される。
B「それは逃げだ。読書会が本当はどのような意味を持つのか、それを検討しようじゃないか。俺が正しいのか、君が正しいのか」
この提案に乗ったら、A氏はもうおしまい。
アンケート調査などを行う場合は別だが。
B氏が前提していること
読書会についての本当の概念というものがある
読書会の真の概念は、A氏のものであるか、B氏のものであるか、そのいずれかである
じっくり話し合ったら、A氏とB氏のどちらが正しいのかがはっきりするはずだ
それが「逃げ」であるのは正しい
A氏はB氏になかば呆れてしまっており、議論を放棄しようとしている
備考
ここからA氏とB氏のあいだで行われる議論は、〈読書会とは何なのか〉をめぐって行われることになるが、しかし、この議論は読書会の定義をめぐる議論ではない。ひょっとすると、B氏はそのように思っているかもしれないが。
むしろ、それは「読書会」という言葉の使い方をめぐる議論になる。さらに正確に言うと、「読書会」という言葉を含む判断や主張の使い方をめぐる議論になる。例えばA氏は「読書会をしているときに、本と関係ない話と、本に関する話との2つの選択肢があり、それぞれの参加者の話題に対する関心度を度外視したときには、後者を選ぶべきだ」という主張を使う。A氏は、これに対してNOと言う人に「君は読書会が何なのか分かっていない」と告げる用意ができている。ここでの「読書会」とは、どの話を選択するべきかを決定する際の決め手となる主旨である。
だが、あくまでも「べき」の話をしている。実際の決定は、そのような「べき」に規定されるとはかぎらない。例えば、「もう50分の本の話をしてるので、そろそろ雑談をはさみましょう」と言ってもぜんぜんおかしくない。これに対して、「いや、読書会は、何分話そうが読書会であって、いつだって本の話をしたほうがいいに決まってるんだから」などとA氏が言ったら、どう思われるだろうか?なんだか石頭に思われないだろうか。A氏がこのように言うならば、A氏は「べき」と実際の決定とを混同しているだろう。
A氏とB氏の議論は、読書会の概念についてお互いに確認し合うようなものになるだろう。議論がこのような展開になることは、珍しいかもしれない。多くの場合、お互いはただ自分が言いたいことをいうだけで、細かいコミットメントの交通整理は行われない。あるいは、まったく逆。お互いがお互いのコミットメントについてあるていど共有しているので、前提を確認しなくても議論が前に進むような……祭り気分と遠回りの細道における会話のような。 しかし、議論集団は、このキリとカシの例のような、特定かつ少数かつ協力的なグループだけではない。インターネットにおける議論は、参加者が不特定であり潜在的な人数は不明でありそれぞれが同じ方向に向かっているのかどうかも定かでない人たちによって行われる。それを「集団」「グループ」「集まり」と言っていいのかすら分からない。そこで形成される「集まり」は仮想的であり、「集まり」は暗喩にすぎない。それは集まりでないかもしれないし、「話し合い」ですらないかもしれない。短文でもやり取りは行われないし、長文ならなおさら。もちろん、がっつり組み合うこともあるが、それでも論点は投稿のたびに増えていく。本来、論点はひとつひとつ潰していくべきものなのではないか。なぜ論点が生じるかといえば、それは話を前に進めていくために必要なことだからではなかったのか。逆に、論点は出されっぱなしで処理されないまま、どんどんと散らばっていく。なぜか?それは、指針共有の動機が無いからだ。なぜ誰も指針共有をしようとしないかと言えば、彼ら(我ら?)に、その議論の後に集団行動をする気がないからだ。キリとカシは、一緒に遊んでおり、次に行く場所を決めて、そこに車を走らせなければならない。そうしないと、「どこ行こうかね」と言い合って日が暮れるだけだ。そういう青春もいいかもしれないけど。せめて、議論の後に個人行動をする気があれば、まだましだが、……つまり、行動決定にむけて、話を収束させていこうという動機が生じるが……その気すらない場合もある。つまり、行動や実践、生活や態度や方針とまったく切り離された状態で議論をする人もたまにいる。それらと切り離された状態で、その議論を収束させようだなんて思うだろうか?いや、思わないだろう。ただ、目の前の言葉から連想されたことを発散的に述べるだけだ。
なぜ議論において批判が重要なのか。それは「事実認識のズレ」や「相互認識のズレ」が人間にしょっちゅう起こるからだ。ズレている状態を直したいから、批判したくなる。 だが、「ズレたままでいいじゃん」と考える人は、どうだろう。批判なんて意味がない。議論なんてする意味がない。
いや、こうは言えるだろう。我々は集団で行動するつもりはない。それぞれが個々に行動する。我々がめいめい好き勝手に色々なことを口に出す。めいめいがそれを耳に入れる。そうしてめいめいが、それを自分の新しい行動のためのヒントにする。これならば良いだろう。こういったことはブレストと呼ばれる。アイデア出しのための手法である。 重要なのは、今自分たちがしているのはブレストなのか、それとも議論なのか、それを意識することではないかなと思う。
同時に重要なのは、ブレストは何のためにするのか、議論は何のためにするのか、これらを踏まえたうえで、今はブレストの時か、今は議論の時か、あるいは行動に移るべき時か……その時機を判断すること。もう話が落ち着いたのに、まだ議論をしたがるような人がいた場合、その人は時機を逸しているかもしれない。議論のために議論をしたいという人だっている。議論は遊戯になりうる。知識や洞察力や咄嗟の判断力を競うゲームにもなる。では、今はゲームを楽しむ時なのか、それとも、なにか結論を出すべきときなのか。そして、そのような時機についての認識の共有がなされなければ、お互いの話も噛み合わなくなってくるだろう。真面目に話したい人は、議論遊戯にいそしむひとにイライラするかもしれないし、議論を楽しみたい人は、結論を急ぐ人と話してもつまらないと思うかもしれない。
A氏もB氏も、お互いの認識のズレを直そうとする点では共通している。2人の議論の難点は、B氏がA氏の主張を正確に捉えていないというところと、A氏が議論を放棄しがちなところだろうか。
A「いいですよ。検討してみましょう。ただ、私が正しいか、あなたが正しいか、このどっちかであるとはかぎりません。どっちも間違っていることもある……とまでは言いませんが、どちらかの概念が正しい、二者択一だ!……とは言えないと思うので」
ここでA氏は、たまたまここにいる2人の人間が持っている意見のどちらかが完全な形で正しいものとしてあることの必然性を否定している。
A氏は、自分の正しさを示したいわけでもないし、自分が論破されたときにB氏の意見の正しさを無条件で受け入れるつもりもない。
B「じゃあ、君の読書会の定義を教えてもらおう」
A「定義なんてしてません。今ここで定義を問題にしても甲斐がないと思います」 A氏は、議論のやり方そのものについて慎重である。
A氏は定義を避けている。
B「君がいま検討すると言ったんじゃないか」
A「検討する、イコール、定義の検討ですか?」
B「そうだろう。それなしに、どう考えを検討するって言うのだい?」
B氏は意見や概念の検討が、即ち定義の検討であると思っている。
B氏は、定義しないと検討は不可能だと思っている。検討とは定義の検討である、と。
A「つまり、あなたは、定義を持ち出さずして概念の検討はしてはならない、言い換えると、定義を持ち出すことによってのみ概念を検討する資格を得る、と言いたいのですね?」
A氏は、〈できない〉を〈してはならない〉にすり替えようとしている。なので、「資格」という言葉を持ち出している。
B「そんな変な、難しいことは言っていない。概念の検討は定義の検討だと言っている」
A「私は、あなたが概念の検討に定義が必要だと言っていることのうちに、あなたの〈検討〉についての理解が透けて見えると言いたい。あなたの検討の概念は、あなたのその規範……〈定義しなければならない!〉……に現れている」
A氏は無理やり規範の話に持ち込もうとしている。
B氏の検討の概念がB氏の抗言に表れているとA氏は言いたい。
B氏はしっかりやろうとしている。
B氏は定義なしの検討が進められようとしたときにそんなことはおかしいから適切なプロセス(定義)を踏まなきゃダメじゃないかと言わなきゃならないと思っている。
B氏は、検討の概念が毀損されそうだと感じており、それを守ろうとしている。
B「いや、規範なんて言っていない。事実を言っている。検討には対象が必要だろう。その対象は概念だと君は言いたいだろうが、概念をそのまま扱うことはできない。だろう?だから、まずは概念を言語化する必要がある。ここまではいいか?んで、概念を言語化・定式化したものが、定義だ。ゆえに、概念の検討のためには、概念を言語化して、扱える形にしたもの……つまり定義だ。定義が要るんだよ」
B氏は、A氏がよくものを分かっていないと思っている。
B氏は、自分の言っていることが事実であることを強調している。この強調により、それが単なる規範(決まりごと)にすぎないのではないという点も強調している。
B氏の論拠は、概念を直接扱うことはできないということだ。
これは論点先取だろう。検討的に対象を扱うためにはその対象が定義のような形をしていなければならないという論点を前提としている。その上で、概念は定義のような形をしていないので検討的に扱えないので、それを定義へと加工する必然性があると論じている。
A「概念は定式化しなくても使えます」
A氏は「扱う」という動詞を「使う」という動詞にズラそうとする。
だが、このふたつにどんな違いがあるだろうか?
B「言葉は厳密に使わないとな。『使う』じゃなく、『扱う』だ。概念はふわふわしたものだ。目に見えない。そういうものを扱えるか?まず、そういったものを瓶にでも入れるか、凍らせるか」
B氏はA氏のたくらみにすぐに気づき、牽制する。
B氏は、A氏のたくらみの中身までは知らないだろう。
A「ベルクソンが用いた比喩を念頭に置いていますか?泉から生き生きと湧き出る水を瓶に詰めてしまっては陳腐なものになってしまうという……」
B「ベルクソンって、知らないよ。そういう、人物の名前とか出すのはやめてくれ」
A「別にいいでしょう」
B「ああ、まあ、いいか」
A「本当に、概念はふわふわしたものですか?」
B「なんだ、『ふわふわ』も定義したほうがいいかな」
A「いや、問いかけですよ」
B「だって、概念って人によって違うし、特定の形を持たないだろう。ここでの『形』ってのは、なんか、文章としてまとまってるって意味な。文章化されてたら、他の人もそれを読める、聞ける。形ってか内容、が定まってる状態」
A「そもそも概念自体が固まっていないことには、それを表わすところの定式も固められないんじゃないですか?」
B「んー、でも、概念って変わると思うんだよ。人によっても変わるし、同じ人のなかでも変化すふだろう」
A「あ、固まるっていうのは、そういうことではなくて。えー、まあ、その時、ある人にとっては固定されたものじゃないですか?時を問わずぐにゃぐにゃゆらめいているものではないでしょう。そのぐにゃぐにゃのスナップショットですか?定義は」
B「あー、でも、だとするとだ。概念は頭の中ではもう文章になってるんだが、定式化というのは、それを現実世界に文字起こしするようなことかもしれないな」
A「それを受け入れるかどうかは別として……じゃあ、概念はふわふわしたものではないですね?」
B「あ〜……。まあ、物体ではないという意味ではふわふわしてる、頭のなかの観念だからふわふわしてる……」
A「……まあ、私が聞きたいのは、概念は定義されるまでもなくすでに定まっているものなんじゃないかってことです」
B「な〜んか!変な気がするなあ」
A「変ですかね?」
B「なんかさ、じゃあさ、議論する意味とかなくない?」
A「えっ?」
B「だって、もう概念が決まってるんだったら、あとやることない気がする。定義って、形のないものにいかに形を与えるかって作業だろ?でも、そもそもはじめから形があるんなら、定義しなくても……」
A「だから、定義しなくていいんじゃないですか」
B「だから。じゃあ議論する意味ないって」
B「いや。聞いたことないけどね。最初に定義しないで議論するって」
A「いくらでもありますよ。あなたの議論の定義が狭すぎるんですよ」
B「ちがうよ。議論の定義が狭いんじゃないよ。俺は厳密に議論したいの。厳密にやろうと思ったら、必要なことだって多くなるだろう。だから狭く感じるの」
A「同じことですよ。あなたの〈厳密な議論〉の定義が狭いんですよ」
B「じゃあさ、定義しなくてもいいけどさ、君の言うところの議論が何なのかを説明はしてよ。定義なしで議論するって、分からないからさ」
A「定義しちゃうと、その定義は正しいかどうかっていう議論になっちゃうんですよ。でも、本当に論じたかったのはそこですか?って思うんです。だから、定義したくないんです。定義しなくても、『それっておかしいよね。だってまるまるだから』って言えるんですよ。それに対して反論もできるんですよ。これってもう議論ですよ」
B「だが、おかしいと言うためにも、その人の頭の中に定義がないとダメだよな」
A「定義というか、概念ね」
B「まあ、概念でも。じゃあさ、それを言語化しておいて損はないんじゃない?」
A「そうなんですけど、定義って形で言語化する必然性はありますか?って言いたいんです。『それおかしいよ。だってさ』っていうのも、言語化ですよねって言いたいんです」
B「言語化……言語化か?」
A「なんかおかしいなって思うけど黙ってるのと、『おかしいです』って言うのとのあいだには、違いがありますよね。口に出すことを言語化って言っていいんじゃないですか?」
B「言語化って、そういう意味か?」
A「うんうん。どこが引っかかりますか?」
B「なんかさ、言語化って、ただとにかく口に出しさえすればOKってもんじゃなくてさ。……うまく言語化しなきゃダメじゃね?いや、いま俺自身がうまく言語化できてないけどさ笑」
A「変だなって思った時『変だな』って言うだけじゃ言語化じゃなくて、その違和感をより詳しく描写しないと言語化にならないってことですか?」
B「あー、それに近いかも」
A「近い、っていうのは?」
B「詳しく描写ってのが、なんかしっくりこない」
A「定義って言いたいんじゃないですか?」
B「あは。そうかも」
A「だとしたら、こう考えてみてください。『変だ』って言うだけじゃなくて、その後に『だって……』という理由が続く。この違和感の理由を述べるところで、違和感の言語化がなされるのだ」
B「おかしいと思った理由も含めて言うことが、そのおかしいっていう感情の定義になるってことね」
A「定義じゃないですけどね。これなら言語化じゃないですか?」
B「まあ、そうかもね」
そう言ってB氏は声を出して欠伸する。
B「なんの話だっけ?」
A「あなたが、読書会の定義をしろって言ったんです」
B「ああ、そうか。正しい読書会の定義を議論するんだったか」
A「でも、私は嫌だって言ったんです」
B「あー、ケチね」
A「ケチ言うなし笑」
A氏は声を出して咳払いする。
A「定義しなくても議論できますよねって言ったんです」
B「どうやってよ?」
A「おかしいよね、だってさ……って」
B「はいはい。じゃあ、相手の言うことに、おかしいって言えば議論になるわけね」
A「おかしいだけじゃなく……『そうですね』って言うのも議論ですよ」
B「それは、雑談じゃない?ただの肯定、相槌じゃん」
A「議論でも相手の主張に対してYESと言うことあるでしょう。NOと言うのが議論で、YESと言うのが雑談っていうのは、雑すぎますよ」
B「でもなんか、真理を突いてるっぽくない?」
A「知らないですね。じゃあ、なぜYESと言うことも議論だと思いますか?」
B「え、『なぜ』?それこそ知らないよ。君じゃないし俺」
A「この人はどうしてYESと言うことも議論だなんて言うんだろう……って想像するのも大事じゃないですか?」
B「説教するなよ!?」
A「さっきあなたが言語化できなかったとき、私が代わりに言語化したでしょう。そういうこともありえますよ」
B「だって、君と俺は同一人物だから」
A「メタ発言はやめてください。冷めるので」
B「君は冷めないよ。冷める可能性があるのは読者だよ。で、冷める読者ってどんな人?それは俺たちの世界に没頭してる人だろう。だが、このような虚構の議論に没頭している人の目は醒めさせた方がいい。本当の議論はもっとカオスで錯綜している。粗い。あるいは、気遣いだらけで、消毒済みか……」
A「それはいいとして、なぜYESと言うことも議論だと思いますか?」
B「質問の意図が分からないから、答え方も分からない」
A「質問の意図も想像できませんか?」
B「できないよ。そういうことができるって思う人がいるけど、実際はできないって俺は思うね。そういうやり方は、問いには答えがあらかじめ用意されているんだっていう発想に至らせるから、良くないぜ。いいか、そういうのは意地悪なだけ。君はただ、君の意図を率直に伝えて、言いたいことを言えばいい」
A「私の話をよく聞いていないんじゃないかと思いまして」
B「試みているのか?注意を向けさせようとしているのか?それは、なんか、嫌だよ。俺を見くびるな。逆にな。聞けないから、話とか。けど、こうして受け答えはしてるだろ。それで満足してほしい」
A「答えてくれてないじゃないですか笑」
B「いいか。こうして君のアプローチに抵抗していることが、俺の受け答えなんだよ」
A「すごく分かります」
B「そうだろうよ。だって……」
A氏はB氏を遮って食い気味に、
A「私が言いたいのは、YESというのが相手の主張の是認だということです。議論は、ある主張が受け入れられるか受け入れられないかという分岐点でどうするかの連続です。主張が受け入れられるなら、先に進む。受け入れられないならば、説明を求めたり、受け入れられない理由を述べて相手の主張の正当性を問う」
B「それって、『なぜ』の答えなの?」
A「なぜYESと言うことも議論であるかというと、主張を受け入れるか受け入れないかの分岐の連続が議論であるからです」
B「それって、定義?」
A「定義ではないし、それが定義であるかどうかは重要ではないと思います」
B「いや、定義してるように見えたからさ」
A「私はそもそも、議論でもYESと言うっていうのは常識だと思っていたので、そこでつまずくとは思ってなかったので」
B「つまりイライラしたと。だから、あんな質問をしたと」
A「まあ、否めないかもしれません。すみません」
B「否めない『かもしれない』っていう言い方は、謝罪としてはちょっと失礼だが、俺はいいよ」
A「いや、私自身でも、なぜあの質問をしたのかは分からないので、『かもしれない』は私の実感です」
B「じゃあ、謝らなくていいよ。『それは分かりません』でいいよ。俺も、怒ってないし」
どうして久住哲.iconは、しばしば会話文にノイズを混ぜ込むのだろうか?おそらく、私にとってそれらのノイズは重要なものなのだろう。おそらく、ノイズを入れたくなるというこの性格から、文章を綺麗にまとめることができないという久住哲.iconの欠点に繋がっている。
A「話を戻して……主題を定義しないまま議論することはできるのかどうか。あなたはできないと言い、私はできると言っている。私ができると思うわけは、もう話しましたが、もう1度話しますと、定義文を提示しなくても、主題について理由付きで是認したり否定したりする行為のうちに、その主題についての理解が透けて見えるからです。この透けて見える理解を、見えるがままに描き合うこと。そのお互いの違いを確かめ合うこと。……私はこれが議論だと思うんです。定義してしまうと、余計な固定性、余計な鈍さが生まれると思うんです」 B「透けて見えるっていうのは、どうやって?」
A「その主題について話すにあたって自分がどう振る舞うべきであるか・相手がどう振る舞うべきであるかという推奨や許容が、自分や相手の身振りや言葉にあらわれるんです。強く否定するだとか、曖昧なままにしておくだとか、そういう色々な振る舞いに」
B「ふむ、それらの身振りが主題に関わるっていうのはどう分かるんだい?その人が、強く否定しがちな性格なだけだったりしないかい?あと、主題となっているものではないものについて、なんらかの反応をしているんだってことはありえないか?」
A「それはありえます。つまり……主題だって、生きた会話のあいだでは変わっていって然るべきなんですよ。もちろん、話が進んだあとで大きな主題に再びたち戻る瞬間などはあります。『結局やっぱりここに戻ってくるんだ』っていう風に、話題が持続していたような見かけが生じることはあります。けど、やっぱり、それぞれの会話・それぞれの発言で、何についての話であるかはどんどん変わります。私たちはなにも、特定の主題についての相手の考え方が知りたいわけではないでしょう、たいていの場合。私たちは、相手が何を考えているか知りたいんです」
B「相手がどういう人間なのかってことか?」
A「それもあります。それもそうですが、相手をとおして、主題となる物事についても知りたがっている」
B「それは、相手が何を考えているか知りたがってるというのとは違うことだよな」
A「まあ、そうですね。ある物事が何であるかということは、人がそれに際してどのように振る舞うかということと切り離せません。そして、人が物事について話すというのは、人がその物事に際してどのように行動するかの一例となります。わかりますか」
B「んー、話すこともひとつの振る舞いだってこと?」
A「そうです。私たちは文を使って話しますよね。私たちは、口で喋るときは完全な文を述べないことも多いですけど、文で話す。これらの文は、文自体として、なにか現実の事態を表すものであると思われるでしょう。私たちは、現実を反映する文というものを使って、現実について話していると思われるでしょう。ですが、私たちが文を使うのは、文が文自体として事態を反映するものであるからではありません。私たちは文のその機能を発揮させるために文を使うのではない。そうではなくて、文を使うということがすでにひとつの振る舞いなんです。実際に起こっていることはもっとシンプルなんですよ。」
B「いや。わからんぞ。いま君は、『私たちは文を使っていない』ってのと『私たちは文を使っている』っての、どっちも言わなかったか?」
A「いや、私が言いたいのは、こういうことです。文が文として事態を反映する機能を持っていて、その、文に内在する機能を使うために、私たちが文を使うのではないということ。……ここまでOKです?」
B「えー。言い方がむずいな」
A「えー、例えば、あるボタンがあって、それを押すとウェイターがテーブルに来るとする」
B「ファミレスとか居酒屋とかにあるやつ?」
A「あー、そうですね。あれは、あらかじめ呼び出し機能があって、それをポチって使うわけですよね」
B「うん」
A「発話というのは、そういうものではなくて、言うなれば手を挙げてウェイターを呼ぶようなもの……」
B「うん。同じじゃね?手を挙げるって元々人を呼ぶ機能あるでしょ」
A「そうとも言えますが、こうだとどうですか。ある人がウェイターを呼ぼうとして、誰にも見られないように一瞬だけ手を挙げて瞬時に戻す」
B「そいつバカか、あるいはふざけてるか。たぶん同席のダチを笑わせてんじゃねーかな」
A「でも、挙手には人を呼ぶ機能がもともとあるなら、これでもウェイターが来そうなものじゃないですか」
B「それは言い過ぎっていうか、少なくとも手を挙げてるのが人から見られないと機能しないでしょ。ボタンだって同じだよ。ピンポーンみたいに鳴るじゃんあれ。で、たぶんテーブルを表すナンバーが光ったりすると思うんだよね。店員がその音を聞いたり、そのナンバーを見たりしないと、ボタンだって機能しないでしょ」
A「まあ、この呼び出しボタンの喩えはかなり下手な喩えなんですが……。とにかく、あなたはシュッと手を挙げるだけの人がおかしいって思いますよね」
B「まあ、本当にそいつが店員を呼びたいならね」
A「文を使うってそういうことが必要なんですよ。つまり、おかしいと思われないような文の使い方をしないといけない。そして、文が何かを意味するっていうのは、この適切な使い方とセットになってるんです」
B「まだ分からんのだけど」
A「例えば、客が手を挙げるってことは、客の心の中の〈店員を呼びたいと思っている気持ち〉の表現だと思いますか?」
B「んー、普通に考えれば、そうなんじゃない?」
A「いや、挙手って気持ちを表わすものじゃなく、店員を呼ぶものですよね」
B「同じだろ。店員を呼びたい気持ちを表わすことによって店員を呼ぶって言ってもいいだろ」
ここでBは、後期ウィトゲンシュタインが言うところの「哲学者」のように考えている。
A「言ってもいいですけど、その気持ちの表現って要ります?」
B「店員からすれば気持ちが分かんないと自分がどうすればいいか分からないだろう。まあ、客が気持ちを表現しなくても、店員が気持ちを察するってことはあるかもしれないが」
A「いや、客はただ店で人を呼ぶときの適切な動作をしているだけであって、自分の気持ちを表現しているのではないんじゃないですかね」
ここでAは、意図の表現よりも「適切な動作」の方が重要だと指摘している。というか、意図を表現しようとする努力など不要であり、必要なのはただ適切な動作のみだと言おうとしている。
B「同じだろ」
A「同じですか」
B「どちらにしろ店員を呼びたいっては思ってるだろうから。それがにじみ出すことはあるんじゃないか。どっちにしろ表現されてしまうんじゃないかな。逆に、そういう気持ちがない場合を想像できないよ」
A「まぎらわしい手の挙げ方をしていたら店員がやってきてしまった。こういうシーンは想像できないですか」
B「あくびして伸びしたら手を挙げたと思って〜って感じか?それは店員がバカだろう」
A「こうだとどうです?あくびして伸びをするときに、片手を高く上に伸ばして、軽く横に振るような動作をした場合」
B「そんなやついないでしょ」
A「もしいたとしたら?あるいはそういう民族が集団で日本に旅行に来て、ファミレスでそういう動作を繰り返したとしたら」
B「それは店員も呼ばれたと思う可能性はあるだろうけど」
A「どうして店員は客に近づいたんですか」
B「呼ばれたと思ったからじゃない?」
A「どうして呼ばれたと思ったんです?」
B「まぎらわしかったから、だろう」
A「そこで客の気持ちは関係ありますか?」
B「だから。店員は客の気持ちを誤って読み取ったんだろう。んで、そのように手を挙げる動作自体が、人を呼ぶという意味を持っているからこそ、そういうことが起こる。君が言っていたことと、やっぱり違うよ」
A「だとしたら、呼びたいという気持ちってやっぱり要らなくないですか?」
B「まあ、そういう手の挙げ方自体が呼ぶ機能を持ってるとしたら、気持ちは要らんかもな」
A「とりあえず、挙手の動作がそのひとの気持ちを表現するものではないということは理解できますかね」
B「今みたいな意味なら、まあ」
A「じゃあ、『私うれしい』って話すことはどうですか」
B「いや、それはもろ感情の表現じゃん」
A「たしかにこれは感情を表現する文の一例です。ですが、実際にこの言葉が話されたとき、話した人の感情がこの言葉によって表わされているのでしょうか?」
B「そうじゃなかったら何が感情の表現なんだよ」
A「笑顔」
B「ああ」
A「けど、笑顔自体に〈喜びを表わす機能〉があると言えますか?」
B「まあ、色んなケースがあるとは思う。その個別のケースを細かく分類していけば、様々な笑顔の様々な機能を特定はできるんじゃないかね」
A「そうでしょうか?実際はもっとシンプルじゃないですか?そういう分類をしなくとも、私たちは相手の笑顔がどういう意味なのか分かったりしませんか?」
B「分かるというか、予想はできるよね。想像というか」
A「想像ですか?何を想像するんですか?」
B「だから。相手の気持ちとか考えだろ」
A「想像する暇あります?」
B「どういう意味だよ」
A「私たちって咄嗟に相手の表情の意味を察しませんか」
B「仮にそうだとしても、それは咄嗟に想像してるんだろ」
A「想像って、そういうものでしたっけ」
ここでAは「想像」という言葉の使い方について質問したがっている。だが、想像自体がどのようなものであるかについての質問をしてしまっている。
B「いや、お前がそう言うから、合わせた言い方をしただけだよ」
A「私たちは相手の感情を想像なんてしてませんよ。自動車を運転しているときに道路に大きめの石が落ちているのを見て、その石を踏んだときのデメリットを想像しないように」
B「いや、俺は想像するよ!『タイヤがパンクしたらいけない』と思って、それを避けるよ」
A「ではあなたは心のなかで『タイヤがパンクしたらいけないから避けよう』と呟きますか」
ここでAは、内語と想像(思考)をわざと同一視している。
B「どうだろうな。まあリアルな話『おっと危ない』くらいかな笑」
A「そういう呟きもなく、無言で石を避けることも考えられないですか?」
B「考えられはするよ。でも、石を避けるのは危ないからだろう。仮に無言であろうと、石のことを考えてはいると思うよ」
A「考えることと想像することとはイコールですか?」
B「ほぼイコールじゃない?」
A「ほぼ、とは」
B「想像ってここでそんな大事かな?」
A「まあ、今は〈咄嗟の想像ってあるのだろうか〉という話をしているので」
B「けど、咄嗟の想像なしに、人の表情を読み取るなんて不可能だろ。だって、表情の本当の意味に直接触れることはできないわけだから」
A「別に私は、道路の石を避ける運転者を指さして『彼は咄嗟に石の危険性を想像した』と言ってもいいと思っていますよ。けど、この文にだまされて、彼が想像という思考活動を行ったと考えるのは、おかしいと思うわけです」
B「でも、『彼は……想像した』って言っちゃってるわけだから」
A「この文は〈彼が……想像した〉という事実を表わす文ではない、ということです」
B「……なんの、話だっけ?」
A「『私うれしい』という文はその人の感情を表わしているのかどうか」
B「この文についても、見かけにだまされるなってことを、君は言いたいわけか」
A「例えばですね、この文を何の脈絡もないところで言っても、その発語の瞬間に喜びの感情表現が起こったとは見なされないわけです。むしろ、なにか精神のエラーのようなものとして扱われる可能性が高い」
B「ん?でも、関係なさそうなところで『私うれしい』って言ったとしても、やっぱり、『え、なにが嬉しいの?』っていう話の流れになるとは思うんだが。これって、つまり、その人が喜びを表現したって見なされてるってことなんじゃないの?」
A「その質問に対して、『別に他の何との関係もなく、ただ喜びを表現したの』というふうな返答が来たらどうですか?例えば、『今日は8月3日です。私うれしいです。天気は晴れ、とても暑い日です。日傘日和ですね』と言った人に、『誕生日か何かですか?』『野外イベントに参加するんですか?』などと質問したところ、キョトンとして『何がですか?』と言ってきて、『だって君はうれしいですっていったから』などと言ったら、『ただ喜びを表現しただけです』と言ってきたら、どうでしょう」
B「いや。変な人だよ」
A「その人は、〈喜びを表現した〉と見なされたわけではないんですよ。むしろ、喜びの表現が適切か否か評価されたと言ったほうが近い。もしそうじゃなかったら、『なにが嬉しいの?』だなんて聞こうとは思いません。ただその事実を受け止めればいいだけですから。その発言が突飛なものだから、その理由を尋ねたくなる。理由を尋ねたくなるのは、意味が分からないからです。そして、意味が分からない振る舞いは、行動としては失敗したものと見られます」
B「いや、さらに分からんぞ……とりあえず、なにが嬉しいか聞く理由は様々あると思うけどな。別に、意味不明だから理由を聞くって場合だけじゃないだろ」
A「なにが嬉しいのって質問は、喜びの理由が知りたいんじゃないんですよ。その喜びの表現が適切なものとして成立しうるような理由が知りたいのであって、つまり、相手が正常であることを確認したいわけです」
B「ちょっと待て。暴走してるぜ。君の悪い癖だ。君は『喜びの理由が知りたいのではない』と言いながら、同時に、『喜びの理由が知りたいのである』って言っている。さっきもそうだった」
A「いや、矛盾はしてません。一見矛盾しているように見えるだけです。理由それ自体を知りたいのではなく、『私うれしいです』がエラーなのか正常なのかを知りたいんですよ。そして、それを判別するための手がかりが理由なんです。もっと厳密に言えば、〈相手が自分に対してどのように理由を与えてくるか〉。これがエラーかどうかを判別する手がかりになるんです」
B「エラーってのは、なんだ」
A「言い間違いのようなものだと思ってください」
B「うん」
A「『今日は8月3日水曜日です』『えっ木曜日では?』こういうやり取りがあって、その続きとしてはいくつかのパターンが考えられる。『あっそうでした。間違えました』『え?水曜日ですよ!間違いありません!』『ふふふ、あなたの見当識を試させてもらいました』……のような」
B「はあ」
A「1つ目は単純なエラー。2つ目は間違っているのに強情を張っているとか、見当識がおかしいとか。3つ目は、こちらがテストにかけられていたという展開。……3つ目とかは普段はあまり想定しないものですが、1つ目については、よくそれが疑われます。言い間違いとかしょっちゅうありますしね」
B「……なんの話だったっけ?」
A「『私うれしいです』はその人の感情を表わしているのだろうか?……さらに遡ると、人がある物事を何であると捉えているかはその人のその物事に対する振る舞い方と切っても切り離せないということ」
B「いや、わっかんねえぞ」
A「振る舞うって、何でしょうね?」
B「定義はしないんじゃなかったのか?」
以下に引用されたものを引き伸ばして会話形式にしたものがこのページに書かれたものだと言える
判断と行為は、私たちが独特の意味において責任を持つものである。それらは、私たちが引き受けるある種のコミットメントなのだ。カントは、判断することと行為することを、規則の適用、つまりは概念の適用として理解している。これらの規則ないし概念は、主体がそれらを適用することで何にコミットし、何に責任を持つようになるのかを決定する。概念を、判断に理論的に、行為に実践的に適用することで、概念使用者は自分が従うことにした規則に準じて行われる規範的評価に左右されるようになるのであり、それによってその概念使用者は束縛され、何かにコミットするようになり、なんらかの責任を負うのである。/概念適用によって引き受けることになる責任とは、課題に対する責任(task responsibility)、すなわち、何かをするぞ、というコミットメントである。理論的に言えば、人がコミットしていること、つまり、人がどの程度それをうまくするのかに関して評価を受けるようになることとは、その人が〔自分の〕もろもろの判断を統合し、独自の種類の統一性、つまりは統覚の総合的統一性を示す全体にすることである。それは、体系的で合理的な統一性であり、判断から推論的帰結を引き出すこと、判断の理由を見つけること、自分が引き受けているものと両立しないコミットメントを拒絶することによって、動的に生成・維持される。統覚作用を果たすこと、つまり、特に知性を伴うとされる種類の意識を持つことは、言説的な(つまりは概念的な)意識を持つことである。というのも、どの判断が他のどの判断を導く理由になるのか、あるいはどの判断が他のどの判断に反対する理由になるのか、という関係によって構築される統一体へと諸判断を統合することにこそ、統覚は存しているからだ。そして、判断同士の間のそれらの合理的関係は、人が判断を下す際に自らを縛る規則によって、つまりは概念によって、決定される。それぞれの新しい経験エピソード、例えば知覚判断を下すことがその典型なのだが、その各エピソードは先行しているコミットメントの集合体への統合を要求するのであり、したがってこれは先行のコミットメント集合体の変形を要求するのである。新たな両立不可能性が現れることもありえ、これについては、先にあったコミットメントを却下したり修正したりすることによって批判的に対応しなければならない。〔判断が〕組み合わさることで生じる新たな帰結が後に続くこともありえ、こうした帰結についても承認か却下がなされねばならない。全体が体系的に進化・発展してゆくそのプロセスは、典型的に合理的なものである。このプロセスは、新しいコミットメントを承認したり新しい帰結を引き出したりすることによる吸入ないし敷衍と、新しいコミットメントに対する合理的関係の観点から古いコミットメントを却下したり調整したりすることによる排出ないし批判の、〔ふたつのプロセスが織りなす〕リズムによって構築される。
備考:ぷゆ氏との議論から
その議論の果てで、定義がないと議論できないという定式から、決まっていることがないと議論できないという風に、再定式化がなされた。これをさらに一般化すると、決まっていることがないと行為できない、となる。これをより正確に言うと、或る行為が或る行為として他と区別されるためには、その行為に特有の決まっていることがなければならない、となる。
A「振る舞う、振る舞いというのは、何らかの評価を受けるものです。ただの身体動作や物体の運動とは異なるものですね」
B「男らしく振る舞うとか、女らしく振る舞うとか、そういうことか?」
A「そうですね。あとは、『振る舞い』という言葉を使っていない場合であっても、変だと思われたり立派だと思われたりする行動や行為などは、振る舞いだと見なしていいでしょう」
B「はあ」
A「振る舞いと、認知とは、不可分である」
B「ん〜。もっと前は何の話をしていたっけ?」
A「そもそもは、読書会の話をしていたんですよ。あなたが、この場を読書会であると認識した上で、読書会をしていると意識した上で、あなたがどう振る舞うか。それは、あなたが読書会を何だと思っているかという認識と、切っても切り離せない。私は最終的にはこういうことを言いたいんです」
……
B「うん。でも、うっかりってことはあるだろう。俺が読書会についての定義を持っているとして、その定義と合わないことをうっかり、偶然、しちゃうってことはあるだろう。振る舞いを見れば俺の読書会についての概念も分かるっていうのは、飛躍がある。そういううっかりを考慮に入れてないってことになるよ」
A「そんなことってあります?読書会に参加してたら、うっかり読書会じゃないことしちゃったっていうことが、ありますか?……まあ、あるとは言えそうですよ。例えば、うっかり雑談しちゃった であるとか。でも、私は前から言ってますが、別に読書会は雑談を排除するものではない。そういううっかりが起こると、あなたが想定するのは、定義というものを、なにか固苦しい・自分の手元にないような条件だと見なしているからでしょう。あなたのなかには確固とした読書会の概念があるはずですよ。ただし、確固としたものだからといって、それが真実であるわけではないし、あるときに完璧だと確認されてしまったものなわけでもないですが」
B「じゃあ、俺の読書会についての振る舞いのすべてが、俺の読書会の概念を反映していると言うかい?俺のうっかりの行動も、見逃されずに、すべて評価に晒されてしまうかい?」
A「振る舞い自体が概念を反映するとまでは思いませんよ。そもそも振る舞い自体とは何だろうか?あなたの振る舞いのどこからどこまでを、評価すべき単位とするでしょう。それをどう決めるでしょう?どの時点から、どの時点まで?私が特に注目するのは、あなたが私の質問にどう答えるのか。YESと答えるだろうか、NOと答えるだろうか。どういう理由を述べるだろうか?……そういうことです」
B「YESと言ったりNOと言ったりすることは、振る舞いか?」
A「振る舞いでしょうね。概念についての意識的な振る舞いだ、と言えるでしょう」
B「ふん」
A「ふつう、私たちは概念そのものを扱うって、あまりないんですよ。なにかおかしいことがあったとき、『ちょっとちょっと、そういうのやめて』とか言って制止することは多いけど、なぜそれがおかしいのかを概念に照らして確認するという作業はあまりしない。けど、することもある。それが、質問とか試みとかです。あと議論とかですよ」
B「コミュケーションについてのコミュニケーションをすることは少ないってことか」
A「いや、そこまでメタにならなくてもいいんです」
……
B「概念は、確固とした信念だと言ったが、それはどういうことだ?」
A「私たちはたいてい、自分の概念を疑わないんです。同じように、自分の言ってることの正しさだって疑わない」
B「疑うこともあると思うが」
A「なにか言われてすぐ自分の考えを疑うような人は、そもそも確かな考えを持っていなかったんじゃないですかね。偶然身体にくっついた埃を、相手に見せていただけかもしれない」
B「……ん?」
A「概念は、その概念について話すとき、あるいは、その概念のことを行うときに、どういう風にすべきかについての、ルールであると言っていい。ルールが揺らげば、何をしていいか分からなくなるでしょう」
B「いや、なんの話をしてるのか分からないが」
A「私たちは、会話のなかで発せられる個々の言葉の内容については疑ってみせたりできますが、それらの会話を成り立たせているルールについては、疑ってみせたりはできないのです」
B「いや、『このルールって正しいのか?』って思い直すことはあると思うんだが?」
A「それはもはや別な会話、別なゲームのなかの個々の発言のうちのひとつです」
B「……ん?」
A「ゲームは、乗っかるか乗っからないか。それだけですよ。乗っかりながらルールを覚えることもあれば、まるで見当がつかずゲームに入り込めないこともある」
B「ゲームというのは?」
A「つまり、あるルールでの遊びです」
B「遊び?」
A「遊び。……私たちは、自分がルールに従えていることを疑いはしない。疑うということは、もはやゲームを抜け出して、別なゲームをしていることになります」
B「それが疑うということじゃないか」
A「疑うことにだってルールがあるんですよ」
B「どんな?」
A「たとえば、ある事実について確信している人が、『その事実は不確かだから、参考にすることはできない』と言うと、おかしいですよね」
B「それはルールではなく、端的におかしいんじゃないか?あるいは、前提が間違っているか」
A「つまり?」
B「つまり、そもそもそいつは、その事実について確信していなかったんじゃないか?」
A「では、その人に『君はその事実について確信を持っているかい?』と尋ねると『ああ』と答えたと仮定しよう。そうなれば、たしかにおかしいね?」
B「ただのおかしいやつだろ。っていうお前の設定だろうに」
A「おかしくはない。その人は心のうちに確信を持ってはいるけれど、いざ行動するとなったときには、自分で持っている確信を使う気にはならないってわけです」
B「……どゆこと?」
A「つまり、『確かだ』という感じは覚えるものの、そのフィーリングと、自分がどう振る舞うかは、完全に切り離されているということです」
B「ふーん。それ逆も言えそうだな。つまり、疑わしい気持ちを持ってはいるが、相手の言うがままになるようなヤツを想定できそうだ」
A「そうですよね。そして、そういう人は、いますよね」
B「いるね。で、そいつが騙された後になって、『なんであんなのを信じたんだ?』って訊くと、『いや、心のなかでは実に疑わしいって思ってたんだ』とか言うかもしれん」
A「そう。で、『じゃあ、信じなきゃよかったじゃねえか』と言うと、『いや、たしかに信じてはいなかったんだ。疑わしさが私のなかにあったんだ。それは事実だ』と答える……」
B「はは。そうだ。そして、『けど真に受けたんじゃ、信じてたのとひとつだろうに。心のなかでだけ疑って、心の外では疑ってなかったって言うのか?』」
A「『いや、心のなかで疑うことは、心の外でも疑うことだ。疑いは心の問題だからね。愛情だってそうさ。愛が心の中にあるのが大事であって、愛が内心にあれば、たとえひどい扱いをしても、そこには愛がある』」
B「しかし、愛があるからってなんだ。それでなにか許されようとでもしてるんかね?」
A「なにか変な気がしますが、でも屁理屈くらいにはなっていると思いませんか?」
B「君が言いたいのは、内心と振る舞いが食い違っている人のことか?」
A「いや、内心の疑念や愛や確信など存在しないっていうことです」
B「いや、けど、疑いや確信は心のなかにあるものだろう。どこかに見えるものか?触れるものか?」
A「表情に現れることはあると言えませんか?」
B「それはいわば比喩だろう」
A「比喩?比喩ですか?」
B「なんというか、本当の疑念は見えるはずがない、聞こえるはずがない。けど、そういう疑念や確信の存在を、表情や振る舞いから想像することはできるだろう。すなわち、疑念は本当は現れることが不可能なのだが、それの存在を予想はできるので、比喩的に、『表情に疑心が現れる』などと言うんだ」
A「ふふ。……疑念は見えないんじゃないんです。〈疑念が目に見える〉と語ってはいけないというルールが支配するゲームをあなたはプレイしている」
B「ちがう。疑念は実際目に見えないだろう。ルールではなくゲームではなく、事実なんだ。それに、俺は別に『疑念は目に見える』って言ったっていいんだ。もちろん、これは偽だ。事実と合っていないんだから。それに、嘘でもある。俺は本当はそんなこと思ってない。でも、言うことはできる」
A「けど、疑念は表情に透けて見えるとは言えますよね」
B「だがそれは一種の比喩だと、さっき言った。本当に透けて見えるわけじゃない。分かるだろ?顔が透けて頭蓋骨が見えるという話とは、ぜんぜん別なんだ。けど、透けて見えると言う。これはメタファーだ」
A「……」
B「どうした?」
A「ああ、ちょっと集中力が切れていました」
ここから書き足していくことに困難を覚えたので、会話文はここまでとする。2023/9/22