東リベにみる認知的不協和理論
心理学者のフェスティンガーの理論に「認知的不協和理論」がある。ある事実が認知的な不協和を引き起こすとき、事実は変えることができないため、認知を調節することで不協和を協和状態に変えるというものである。今回の一虎がまさにそれである。一虎は大好きなマイキーの兄をそれとは知らずに殺してしまう。この事実は一虎にとって耐え難い。それゆえ一虎はマイキーを敵とみなすことで、自分の不協和状態を解消しようとするのである。「知ってるか、人を殺すのは悪いことだが、敵を殺すのは英雄なんだぜ。」この言葉に、一虎がいかにして自分の精神的な危機を乗り越えようとしたかが表現されている。一見、これはかなり歪んでいるように見えるが、確かに現実においてこういうことはある。これは結局「周りからどうみなされるか」を「自分をどうみるか」に還元しようとしているのであるが、問題はこの考え方が正しいかどうかではない。問題はこの認知の仕方が原因で、一虎は場地を刺すという2つ目の罪を犯してしまうということである。もし一虎がマイキーの兄を殺した時点で、自分の罪から目を逸らさなければ、歪んだ解釈をしなければ、場地を刺さずに済んだということである。これは道徳的問題でもあるし、法的問題でもあるのだが、もっと大事なことは、一虎のことをずっと良く考えてくれていた人物を自分の手で葬り去ってしまったというこのことが、何よりも一虎本人に十字架を背負わせるのである。一つ目の罪の時点で、それと向き合っていれば、二つ目の罪は防げたということである。そして、最後にマイキーの赦しというのはとてもとても大きなことである。