最後の人間
タイトルの『歴史の終わりと最後の人間』の「最後の人間」は、ニーチェ哲学の概念である。 ニーチェは、民主主義的な価値相対主義の中に埋没し、平等を愛して、他人と争うことを嫌い、気概を失った人間を「最後の人間」と呼ぶ。フクヤマは「最後の人間」を、ヘーゲル哲学に出てくる「最初の人間」と対比させている。「最初の人間」たちは名誉のために命がけで戦い、勝った者は主人となり、敗けた者は奴隷となった。主人は誇りを覚え、奴隷は忍従を覚えた。貴族と奴隷の階級分化(貴族道徳と奴隷道徳の分離と成立)が起こったのが「歴史の始まり」である。フクヤマ的解釈では、ヘーゲルの歴史哲学とは、勝ち負けに執着する傲慢で子供じみた「最初の人間」が、角のとれた温和で寛容な「最後の人間」になるという観念論的な精神成長史である。フクヤマを批判する識者も多いが、フクヤマは世界中の人間が角のとれた温和で寛容な「最後の人間」になれば、世界中から戦争も内乱もテロもなくなるという、いわば当たり前のことを指摘しているのである。 ニーチェは近代の奴隷道徳の台頭に対して、貴族道徳の復活をラディカルに説いた思想家なので、この「最後の人間」を否定的、侮蔑的に語っている。「最後の人間」は気高い貴族的精神を失い、命がけで戦う信念も勇気も持たずに付和雷同的に周囲に同調して媚びへつらい、目先の利益には聡いブルジョワ的な小利口な人間であり、軽蔑すべき畜群である。だからニーチェ作品の翻訳者によっては、ラストマンのことを「末人」「おしまいの人間」などと翻訳している。しかし、フクヤマの使う「最後の人間」という用語にはそういう侮蔑的なニュアンスはなく、単純に歴史の最終段階に出現した人間だから、「最後の人間」と呼んでいる。
民主主義は国民の平等を説いた。この世に奴隷はなく、みな人間としての名誉を認められた。しかし、「普遍的な認知」というものが果たして意味を持ちうるのか? すべての人間が平等に価値があるのなら、すべての人間には平等に価値がないとも言い換えられるのではないか? キリスト教は普遍愛を説くが、すべてを愛するということは、逆に言えば何も愛していないというニヒリズムでもあるのではないか? ニーチェはブルジョワ民主主義の平等主義、価値相対主義のニヒリズムを指摘した。これは本質的な矛盾であるがゆえに、永遠に民主主義に付きまとう矛盾である。それがゆえに、ニーチェの近代批判はマルクスよりも本質的で、根源的だった。 「歴史がリベラル資本主義においてその頂点に達した」とフクヤマは主張しているのだが(この主張は広く嘲られもした)、それは文化的無意識のレベルでは受け入れられ、前提とさえされてきたのだ。
彼が描いた「輝く都市」はいずれ亡霊に取りつかれることになるだろう、フクヤマは警告したが、その亡霊とはマルクス的なものではなく、ニーチェ的なものである。
ニーチェは『反時代的考察』において「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に陥り、そこからしてより一層危険な例証主義的気分にはまりこむ」と述べているが、そこでは従事や関与は超然とした傍観主義によって置き換えられる。 この「すべてを知っていながらも、まさに己の自意識の過剰によって堕落し弱体化される」。これがニーチェのいう「最後の人間」の状態だという。