資本主義リアリズム
『トゥモロー・ワールド』を観るとき私たちは必然的に、フレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクのものとされる言葉を思い出す。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。このスローガンは、私の考える「資本主義リアリズム」の意味を的確に捉えるものだ。つまり、資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態のことだ。 資本主義リアリズムとはおそらくマーク・フィッシャーの造語だと思われるが、彼によると資本主義リアリズムとは「資本主義の代替物を想像することが不可能だという意識が蔓延した状態」のことを指す。
この「リアリズム」とは、どんな希望もどんな前向きな状態でさえも危険な錯覚だと信じてしまう、うつ病患者のデフレ的視線と類似している。
資本主義リアリズムの力のある程度は、資本主義がこれまでの歴史のすべてを包括し、消費してきたその手法に起因するという。
それは、あらゆる文化的オブジェノグラフィー──宗教的偶像、ポルノグラフィー、あるいは『資本論』など──に貨幣価値を付与できる「等価体系」の作用の一つなのだ。 文化的実践や儀礼が単なる美学的なオブジェに変容されることによって、かつて各々の文化が信じていたものは客観的に皮肉られながらアーティファクトと化す。
彼によると、資本主義とは様々な信仰が儀礼的・象徴的な次元において崩壊した後に残るものであり、そこにはもうその廃墟と残骸の間をさまよう消費者=観賞者しかいない。
信仰→美学、参与→鑑賞への転換は資本主義リアリズムの美徳の一つとされている。