文学とはなにか(阿部秋生を参考に)
語源的考察
「文学」という漢語は本来、たとえば論語の「文学子游子夏」など、学芸を学ぶことを意味した。この学芸とは、詩・書・礼・楽のような経学を指していた。中国では、詩・歌・小説・戯曲の類を指して「文学」という例も魏晋以後にはあったが、古い時代の日本には、「文学」をこの意味に用いた例はほとんどなく、とくに日本の文学作品をさして「文学」とよんだ例はない。 さらに「文」とは、文字または韻文(漢詩)の意に用いるのが普通で、文章とは礼楽法度をさしていた。したがって、「はかなきもてあそびぐさ」とされていた和歌や物語の類が「文学」とよばれる可能性は、全くといっていいほどありえなかった。 いわゆる文学作品の総称として、もしくはその根底に共通している性格的なものを指して「文学」と称するようになったのは、幕末頃の通訳用の辞書『英和弁書』であるらしいが、内容の理解に立ち入って使い始めたのは、西周(にし・あまね)が最初であった。明治三年から私塾育英舎で行った講義の原稿『百学連環』の中で、literatureを訳して「文章学」または「文学」と使い、芸術体系の中での位置づけをしている。 文学の原語literatureとは、ラテン語の"littera"(文字)から出てきた語で、文章形式または言語形式によって、人間の精神を客観化したものをすべて含めてよいといわれる。狭義には、その中でも美的性質を有するもの(belles-lettres)をいう。 このbelles-lettresの中にも、普通には文学とよばないもの(たとえば哲学・歴史の著作、講演・説教・伝記・紀行・日記等)で、美的効果を含んでいるものと、本来芸術としての性質を有するもの(たとえば詩・小説・戯曲等)とがある。このうち後者が言語芸術として文学であって、これを”creative literature”とか"Dichtung"などと区別してよぶことがある。 特質的考察
芸術は、内容と形式との融合統一としての表現をすることによって成立するが、文学においては、この表現が二重の性質をもっている。
一つは、言語の音声形像が一種の記号として一定の意味内容を表し、またその聴覚的、とくに韻律的形態そのものによって直接にある感情内容を表す音楽的構造をもっていることであり、もう一つは表現された対象の想像直観的形像が、これに融合する精神的・感情的内容の自然な具象化として、そこにも一種の表現関係を成立させる造形美術的構造をもっていることである。したがって、文学の根本構造は、この音楽と美術とを総合する位置にあるといわれたこともある。 さらに文学は、言語特有の「意味」にもとづく独自の表現機能を有するものであって、これによって人間の精神生活の複雑微妙かつ深みのある意味の連なりを、時間的に展開する点に、他の芸術とは違っているところがある。
したがって文学は、内面的に把握され、解釈された生の関連を本質的に内包している。
それゆえに、文学は人間存在の実相を諦観し、表し示すことがあるが、そのときにもそれを哲学のように概念的認識の結果としての「思想」という抽象的普遍性によって示すのではなく、「生」そのものの具象的個別化において象徴的に表現するものであり、また歴史のように個別的・一回的事実の冷静な客観的叙述の中で与えるものではなく、創造的人格性という理念の浸透した体験の内容として現れるものである。
ゆえに、詩的言語は通常の言語と異なり、音律的形式の表出効果(主として詩)や対象の具象的描写力(主として小説)によって、直接体験の充実相を有するものでなければならない。この意味の直観性は、文学の芸術としての特質をなすものである。