文学とはなにか(イーグルトンを参考に)
文学とは想像的な叙述のことか?
この定義は、文学とは虚構であるという意味から来ている。しかし、文学という項目の中にどういうものが一般に含まれているかを考えるだけでも、この定義は適切ではないことが分かる。だとすると、「事実」と「虚構」という二分法だけでは限界があるのだ。
ギボンが、自分は歴史的真実を書いていると考えていたことは疑いを入れないし、創世記の作者たちもおそらく同じように考えていたはずだが、現在ではギボンの著作や創世記は「事実」として読まれたり、「虚構」として読まれたりする。 ニューマンが自身の神学上の著作を真実であると考えていたことは確かだが、今や多くの人にとってそれは「文学」である。さらに言えば、「文学」は「事実」に関する多くの著述群を含むものだとすれば、その一方で実に多くの虚構を排除している。
コミックの『スーパーマン』、ミルズ・アンド・ブーンの小説は紛れもなく「フィクション」でありながら、一般には文学〔literature には文学全般の意味がある〕とみなされることもなく、ましてや〈文学〉〔Literature には名作・傑作・古典的作品の意味がある〕とみなされることなど絶対にない。 また、文学が創造的もしくは想像的叙述であるとするなら、歴史、哲学、自然科学の方は創造性に乏しく想像力に欠けるものなのだろうか。もっと異なる種類のアプローチが必要なはずだ。
文学を定義できるのは、それが虚構的つまり「想像的」かどうかではなく、それ独特の方法で言語を使用しているかどうかなのだ。
この理論によれば、ロシア生まれの批評家でロシア・フォルマリストの面々の一人であるロマーン・ヤコブソンの言葉を借りると、文学とは「日常言語に加えられた組織的暴力」を表象するような著述である。文学は、日常言語を変容させ濃密にし、日常的発話からシステマティックに逸脱する。 フォルマリストたちは文学言語を、規範からの逸脱の集合体として、つまりある種の言語的暴力とみたことになる。文学とは「特殊な」言語であり、これは私たちがふだん使っている「日常」言語とは著しい対照をみせる。
しかし逸脱を突きとめるためには、逸脱がそこから生ずるところの規範を特定できないといけない。「日常言語」は、オックスフォードの哲学者のある一派から好まれている概念だが、オックスフォードの哲学者が用いる日常言語と、グラスゴーの港湾労働者が使う日常言語との間にはほとんど共通性はない。同一社会集団内でもラブレターを書くときに使われる言語と、地区司祭に話しかける時に使われる言語とは、ふつう異なっている。
つまり、単一の「規範」言語が存在し、これを社会のあらゆる階層の人間が等しく共有しているという考え方は幻想なのだ。現実に使われている言語はいかなるものでも、階級・宗教・ジェンダー・地位などに応じて分割された複雑な言説領域をもち、単一の等質的な言語共同体を構成するように言説を統合することなどできない。ある人にとって規範であるものが、別の人にとっては逸脱であることもある。 「路地alleyway」を意味するのにginnel〔狭い路地を意味する北英方言〕という単語を使えば、ブライトン〔英国南東部の商業・観光都市〕の住人はこれを「詩的」と受け止めるかもしれないが、バーンズリー〔英国北部の工業都市〕の住人にとっては、土地の方言つまり日常言語である。十五世紀のありふれた「散文」テクストですら、表現が古風だからという理由で今日の私たちには「詩的」に響くかもしれない。
かりに太古の文明に属する著述の断片が発見されたとき、それをいくら仔細に調べても、私たちに、それが「詩的」なものかどうは判定できないだろう。すでに消滅して久しい古代文明において「日常」言説がどのようなものであったかを調べる手立てがなければ、どうすることもできないからだ。いや、かりに研究調査が進んで、その著述が「逸脱的」なものとわかったとしても、表現すべてが詩であるとは限らないから、それが詩の一部であると立証はできない。俗語ということもありうる。それが俗語を多用した「リアリズム」文学に属する断片ではないと言い切るには、その社会でそれがどのように機能していたかについて、もっと多くの情報を集める必要があるのだ。 ロシア・フォルマリストたちは、このことに気付かなかったわけではない。彼らは規範と逸脱が社会的コンテクストや歴史的コンテクストに応じて変化するものであること何が「詩」であるか、つまり何が逸脱であるかはそれが属する時代によって決められることを理解していた。
ある言語の断片が「異化」されているとしても、そのことが即、どんな場合にも、どんな場所でも、それが異化作用を発揮するという保証にはならない。 異化作用は、規範となる言語的背景との対比によってはじめて機能するものであって、規範が変われば、その作用作用も停止し文学と認められなくなるだろう。例えば、イギリスのパブでは誰もかれもが「汝、いまだ犯されざる静寂の乙女よ」といった語句を口にする習慣があるとしたら、この語句は詩的なものとは感じられなくなるだろう(習慣化するくらい使っていればその言葉自体が自動化する)。
言い換えれば、フォルマリストたちにとって、文学を文学たらしめる「文学性」とは、複数の異なる言説間の差異の関数=産物なのであって、永続的に固定される属性ではない。結局、彼らが着手したのは「文学」を定義することではなく、「文学性」つまり言語の特殊な用法を定義することだったのだ。しかし、言語の特殊な用法は「文学」テクストのみならず、ほかの場所でもいくらでも見出せる。もし言語の特殊な使用によって「文学」を定義できると本気で信じている人がいたら、その人は、マーヴェルの詩のなかよりもマンチェスターの人びとの会話のなかにずっと多くの隠喩が含まれている事実をどう説明するのか。
換喩・提喩・緩徐法・交錯対句法といった「文学」上の技巧のなかで、日常的な言説のなかでごくふつうに使われることのないものなど、なに一つとしてないのである。
だが、フォルマリストたちは、それでもなお「異化する」ことが文学の本質であるかのように主張した。それは彼らが、この言語使用を相対化してとらえ、あるタイプの言葉遣いと別のタイプの言葉遣いとのコントラストの問題とみたからにほかならない。ならば、例えば著者がパブのなかで隣のテーブルに座っている男性が「こいつは、ひどくのたくった字じゃないか」と話しているのを私が小耳にはさんだとしよう。その言葉は「文学的」言語なのか、「非文学的」言語なのか。 身も蓋もないことを言えば、それは文学である。なぜなら、これはクヌート・ハムスンの小説『飢え』に出てくる言葉だからだ。しかし、それが文学だとどうしてわかるのか。その言葉はどうみたところで、言語行為としてのそれ自身のありように格別注意を向けようとはしていない。
どのようにして著者がそれを文学だと認定したかという問いに対する答えは、その引用の出所がクヌート・ハムスンの小説『飢え』だということに尽きる。それは私が「虚構」として読んでいるテクストの一部であり、自らを「小説」と宣言しているテクストの一部であり、大学の文学コースで教えられてもおかしくないテクストの一部であるというにすぎない。私にそれが文学だと教えてくれるのは、コンテクスト(文脈)なのであり、言葉それ自体に、それを他の言葉と区別するような内的属性や性質があるわけではない。実際今、例に出した言葉は、パブのなかで誰かが自分の文学的才能を認めてもらおうなどとは 思わずに、何気なく口にしたところでなんの違和感もない言葉だ。