定義自体が問題というよりうまく定義できていないことが問題
食いちがいを防ぐために特定の言葉の使い方をお互いに合わせるとすれば、私たちは、不自然に定められた語用法に合わせて、互いに実感として持っている信念の表現を歪めなければならなくなる。
に対して
ふむふむ、2つの解釈が浮かびました
うまく定義ができれば、お互いとって自然な言葉の使い方で議論できるということか
あるいは、うまく定義をすり合わせれば、定義にかんしていい感じに妥協して議論し合えるということか
ある意味では「たしかにそうだ」と思い、ある意味では「いや、すこしちがう」と思う
たしかにそうだと思うのは、たしかに議論において、相手(あるいは自分)がうまく定義できていないと感じとり、その定義をうまく仕上げるために話し合うことは理解を深めるうえで重要そうだから
すこしちがうと思うのは、定義というやり方ではそういった「うまくやろうとする」という趣向を持ちにくいのではないかということ。
その理由としては、「自分なりの定義」というものは、聖域化できるから。
それが不出来であれ一般的なものでないにせよ、うまくいっていようがどうであろうが、それはとにもかくにもひとつの限定された意味(あるいは語の定められた結合パターン)を提示している。
「自分はとにかくこの言葉の意味をこういう風に使っているんです」という風に居直れる。←この点に「調整できなさ」を感じている。
(これじゃ伝わりにくいかも。すみません!)
「定義」とは、語を見て、その語の意味を定めて、それを共有することだ。
これをしなければ、議論において言葉の意味が分からないということが起こってしまう。
この「定義」をうまくやろうとするのではなくこれ自体をやめてみようという提案を、なぜするか?
それは、定義が人の意識を「語」に向けさせてしまうからだ。
問題となる事象からは意識を逸らせてしまう