国風文化の成立
桓武天皇は政局を刷新するため、794年に奈良から京都へ遷都した。彼は平安京を「万代の宮」つまり「永遠の都」として構想し、その造営に熱意を傾けた。 同地は明治維新後の東京遷都まで天皇の御座所、日本の首都としての地位を保ち続けた。 平安遷都から9世紀末頃までの弘仁・貞観文化の時代には、政治運営における監視分野学問の地位が重んじられた。 仏教は政治から遠ざけられ、加持祈祷や神秘性・象徴性が強調される密教が盛んになった。 8世紀以降、唐は衰退を続け、894年に菅原道真によって遣唐使の中止が建技された。 日本は唐の後に現れた宋や朝鮮の高麗とも正式な国交を開くことなく、国風文化と呼ばれる日本独自の文化を育むことになった。 文化の国風化を最もよく示すのは、かな文字の発達だといえる。 日本語を表記するために漢字の音を借りる「万葉仮名」が用いられていたが、その草書体を簡略化したり、一部を取り出したりして、11世紀初め頃までに平仮名と片仮名の字形が案出された。 これにより、日本人が日常使用している言葉をそのまま文章化することが可能になり、生き生きとした感情や感覚を叙述できるようになった。
このあと全部で21の勅撰和歌集が編まれたが、下命者・編者・歌人のいずれにとっても非常に権威ある作品集として重んじられた。
国風文化は、日本が創成期から受容してきた中国雲霞の血肉の上に日本的な独自性を加えて開花させたもの。 その最盛期は、10世紀末から11世紀初頭の藤原道長が栄華を極めた摂関時代であり、代表的な作品に『源氏物語』がある。 『源氏物語』は当時の華やかな宮廷社会を平仮名で書き表した女流文学であるが、日本固有の風物や情緒を語るだけではなく、異国的要素が取り入れられている。 作者の紫式部が、当時の女性には珍しい教養を身につけていたことにもよるだろうが、正式な国交を断っていたにもかかわらず、以前にもまして活発になった大陸との交易の影響がうかがわれる。
平安時代以降の支配者層は、大陸との貿易に特権的に関与することによって巨額の利益を得ており、政治や儀礼に参加するための財源としていた。
船載品である書物・薬品・工芸品・美術品などの希少な品々は「唐物」と総称され、ブランド品として権力や財力の象徴となった。