遣唐使
舒明天皇二年(630年)の犬上御田鍬の派遣に始まった遣唐使は、200年の間に十数回派遣された。 中止になったものや唐から来日した使節を送るための使者も数に入れるか否かによってその回数は12回説から20回説まで様々ある。 遣唐使の目的は、中国の先進的な制度や文物を摂取することにあった。
その目的が達成された最後の遣唐使は、延暦二十三年(804年)、最澄・空海・橘逸勢らが渡唐したときのものである(20回説では、第18回)。
この三人とも、ずばぬけた能書家であるだけでなく、漢文への造詣も深かった。
中国文化の情報はほぼリアルタイムで日本に伝わっていた。嵯峨天皇の時代は日本漢文史上の黄金期だった。 結局、第19回が唐に派遣された最後の遣唐使となった。唐の国力は衰退し、日本人の中国への関心も薄れた。
寛平六年(894年)、前回から約六十年ぶりになる遣唐使が計画された。
遣唐大使には、漢詩文の大家である菅原道真が任命された。しかし道真の、すでに唐から学ぶものはなくなったという建議によって、遣唐使は廃止された。 8世紀までは命がけだった日中間の航海も、9世紀に入ると、造船と航海の技術進歩によって、安全率が向上した。
大陸との距離も縮まっていた。
大同四年(809年)とその翌年に渤海国から来日した使者高南容のように、同一人物がわずか一年間のうちに二度も来日を果たす、という事例さえあった。 遣唐使の廃止はある意味で、日中間の交流の発展的解消だった。