価値判断の区別の仕方に対する反論
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本文
テニスの例の場合
テニスをしているBとそれを見たAが次のようなやりとりをしたとする
A「君のテニスのプレイは悪い」
B「そうだけど、もっとよくしようとは思わない」
A「それならそれでいい」
嘘をつく例の場合
(上の例と同様に)嘘をついたBとそれを見たAが次のようなやりとりをしたとする。
A「君が嘘をついたことは悪い」
B「そうだけど、もっとよくしようとは思わない」
A「君はもっとよくしようと思うべきだ」
嘘をつくことの是非に関する話の場合、Bに対して誰もがAと同じように答える──すなわち、Bに対して「もっとよくしようと思うべきだ」と言う──とウィトゲンシュタインは考える(と「筆者」は解釈している)。
上のような差異を用いて、「相対的価値判断」と「絶対的価値判断」を区別することができるとウィトゲンシュタインは考える。つまり、前者のAのように「それならそれでいい」とスルーできるような場合、その判断(ここでは「君のテニスのプレイは悪い」という判断)は「相対的価値判断」であり、後者のようにスルーできない場合、その判断(ここでは「君が嘘をついたことは悪い」という判断)は「絶対的価値判断」である。
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上のようなウィトゲンシュタインの区別の仕方に対して、「筆者」は疑問を述べる。
以上のことから、ウィトゲンシュタインが行ったような区別はうまくいっていないと「筆者」は考える。
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メモ
ところで、上のA、Bのやりとりを「〜は悪い」という価値判断ではなく「〜はよい」という価値判断で作るとしたらどのように修正すればよいのだろうか?
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脚注