人間は自然法則に抗うべき
2022/05/20
今の先進国の社会の形態(福祉国家)は自然に抗っている。自然のままに任せるなら、経済的な規制を完全撤廃したらいい。そうしたら、一部の社会的強者だけが満足した生活を送れ、社会は貧者で溢れることになるわけだが、それはある意味19世紀の社会権が発達する前の、弱肉強食の自然淘汰を実現した世界だと言える。 先だって、ある身体障害者の音楽家に会った。顔のつやは良いのだが、筋が萎縮する病気で、手足ともに、なえ、ひんまがっている。痛々しい。車椅子に身をよじりながらハーモニカを吹いて聞かせてくれた。自分の作曲した曲なんだそうだ。やがてオーケストラと歌手がそれにあわせて歌いはじめる。彼の頬に涙が流れるのが見えた。 ぼくは異様な感動をおぼえた。曲や、涙にではない。この、一つのささやかな運命がクライマックスに達した瞬間。象徴的な瞬間にである。 あのゆがんだ手、足。動かない、もどかしい、ひんまげられた人生。ぼくはそこに、逆になまなましい「人間」の姿を見る思いがした。このように残酷に象徴化されているが、実はこれこそ人間そのものの姿ではないか。 人間だれでもが身体障害者なのだ。たとえ気どった恰好をしてみても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは、自分のゆがみに残酷な対決をしながら、また撫でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んでいくのだ。
けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。
(中略)
米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽さわやかだった。