岡本太郎
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1953年(昭和28年、42歳)自宅アトリエにて撮影 File:Tarō Okamoto.jpg|Wikimedia commons
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 (中略)
同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。 (中略)
(中略)
ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。 (中略)
没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本敏子の尽力に負うところが大きかったが、敏子の歿後2011年以降の研究においては、美術様式論および図像解釈学などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。