人生の意味の主観的・客観的な側面
マザー・テレサが自身の人生の意味に疑念を抱く(あるいはもっと極端に自身の人生に意味はないと考える)ということはありうる。ここでテレサは多くの人がその人生に意味があると考える人(言い換えれば客観的に見てその人生に意味があると考えられる人)の例として挙げられている 上の例からメッツは、「人生の意味」は当人自身がどう考えるかどうかは関係ないということを導出したらしい(つまり、テレサ自身がどう考えようと彼女の人生には意味があると多くの人が考えるので)。これとは逆に同じテレサの例から、森岡は「人生の意味」の有無は究極的には当人にしか判断しえないという主張をしていた気がする。 そもそも分けてはダメなのか。つまり、「人生の意味」には客観的な側面と主観的な側面がある、としてはいけないのか
※ 小さい子供を持つ母親がいるとする。そして子供はこの母親のために絵を描いたとする。母親は、この絵が自分にとって「モナリザ」よりも価値があると考える。ただし客観的に見れば「モナリザ」の方が価値があると言わざるをえない、ということも理解している
※「主観説」が必ずしも上記の「主観的な側面」に関わるわけではない。主観説 = 欲求実現説は「当人の欲求が実現されればされるほど人生の意味を獲得する」という説である(らしい)が、もしこの説が「たとえ当人が自身の人生に意味はないと感じていたとしても、この条件を満たせばその人の人生には意味があることになる」ということを主張するのであれば、これは上記の「客観的な側面」に関わる事柄である
「ゲーム説」も実はこの「人生の意味」の客観的側面だけを取り扱うものだったのだろうか?ただ、「ゲーム説」では(あの論文における)「緊急時の意味」を求める人──この人は「人生の意味」の主観的側面において悩む人ではないか──には救えないように思われる。
「緊急時の意味」を求める人に対して、「あなたは自己目的的活動に没頭しフローを得ることができるのだから、あなたの人生には意味があるんだよ」ということは、上のテレサに対して「あなたはこれこれの善行をしてきたのだから、あなたの人生には意味があるんだよ」というのに等しいのではないか テレサは自身が善行を行ったこともそれが少なくとも一般的に価値(意味)のあることを理解している。それでも、それが自身の人生に意味に結びつくかというところで疑念を抱く