歓喜は無価値の伝令だ
歓喜によるこれ以上はないという評価は比較を絶した評価であり、他のことがどうでもよくなるという変化をもたらす。基準に照らしてちまちまと比較をする悟性は悦びの光に目をやられてしまう。そして、価値ありと日々それなりに思われていたものたちは、いまや明確な最高体験によって無価値なものとして浮き彫りにされる。歓喜は無価値を知らせるものである。 チクセントミハイの「フロー」の定義には、ある意味ではネガティヴな性格が含まれていた。他のことが「どうでもよくなる」だとか、「犠牲をいとわない」だとか。前者は、他のものが無価値に見えてくるということだし、後者は、それによって世間的な良さが損なわれてもかまわないといった、損失の積極的な容認であるとも言える。