「人生の意味に関するゲーム説の提唱」読書会で読んでたカンペ
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導入
この論文は、「人生の意味」論において「ゲーム説」という立場を提起するもの
筆者のオリジナルの立場
他の立場、この論文でも紹介される
主観説
客観説
筆者の説明がうまく、比較的わかりやすい論文
しかし、個人的には、筆者の結論は「人生の意味とは何か?」という問題の根本的な部分で食い違ってるような気がする
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p. 49:「「人が生きる意味とは何か?」という……と名付けようと思う。」
この論文では「人生の意味とは何か?」と問われている時の「意味」という言葉が、「目的」と同義であるとされる
少し引っかかる
一理はある
日常的な用法において、「意味」という言葉が、「目的」と同義となる場合はある
例えば、バイクが欲しくてアルバイトをする大学生がいるとする。つまり、彼は「バイクを手に入れる」という目的のために、アルバイトをする。
このとき彼に「君がアルバイトをする意味は何か?」と問われれば、彼は「バイクを手に入れる」ためというアルバイトをする目的を答えるだろうし、質問者もそれで納得するだろう。
このとき「(アルバイトをする)目的」と「(アルバイトをする)意味」は同義になる。「人生の意味」についてもこれと同様に考えることができる。
ただし、そうじゃない「人生の意味」における「意味」の捉え方もなんとなくあるような気がする。が具体的にはわからない
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pp. 49-50:「まず、意味のある人生とは……ていないと思われる。」
「活動それ自体を目的として」生きることによって人生に意味が与えらえるという発想
これに対比されるのは、「活動の先に措定される何らかの状態を目的とする」生き方
たとえば、「大金持ちになって豪邸に住むことを目的として生きる」とか「プロ野球選手になることを目的として生きる」とか
これじゃだめ
よく参照される
論文の後半で紹介される
「主観主義者」、「主観主義」というのは「人生の意味論」における一つの立場
論文の後半で紹介される
サディアス・メッツの「基盤主義理論」は「客観主義」という立場の一つ
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p. 50:「シュリックは、ショーペン……見出されるのだ」」
ここは若干詩的に書かれている?
なんとなく説得力がある感じがする
先ほど、「活動の先に措定される何らかの状態を目的として」生きる例として「大金持ちになって豪邸に済むことを目的として生きる」を挙げた
「大金持ちになって豪邸に済むこと」という状態に至るために、苦労しながらも必死で働く。
その目的を達成してしばらくは「やった」となる。
しかししばらくすると、「大金持ちになって豪邸に済む」という状態は当たり前になる。マンネリ化する。
そうすると、その状態から「満足感」「充実感」というものは得られなくなってくる
ではまた新しく何らかの「状態を目的として」生きて、それを達成したとしても、また同じようにマンネリ化する。
これを死ぬまで繰り返すのか?というのが、「ショーペンハウアー的ペシミズム」の指摘、考え
どうすればいいのか。ニーチェ(あるいはシュリック)的には、「自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動を探し求め」ればいい
先ほどいった「 活動それ自体を目的として生きる」に対応している
これも具体例を挙げてしまう。
二人のプロ野球選手A、Bがいると想像する。
Aは野球自身はそれほど好きではなく、お金稼ぎの手段として野球をする。
つまり、Aは「野球をする」という活動の先に措定される何らかの状態を目的として──例えば、「豪邸に住む」とか「良い車に乗る」とか「有名になってチヤホヤされる」とかを目的として──野球をする(生きる)。
このような生き方はさっきの「ショーペンハウアー的ペシミズム」に陥る
これに対して、「野球をすること自体」が楽しくてたまらない野球選手Bがいるとする。
彼は「野球をする」という活動自体から十分な「満足感」・「充実感」が得られるので、「野球をする」という活動を何か他の目標のための手段とはしていない
つまりBにとっては、「野球」という活動が、(本文における)「自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動」になっている。
Bは「野球」という活動をしさえすれば、「満足感」・「充実感」が得られる、つまり「人生の意味」を得られる、ので「ショーペンハウアー的ペシミズム」に陥らない
「自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動」というのが、「自己目的的活動」と呼ばれるもの
他の何かの目的のための手段としてではなく、「活動それ自身を目的として」なされる活動
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pp. 50-51:「以上の引用部分に、……いるのである。」
先ほど説明した通り
細かい点をいうと、前半の「活動の先に人生の目的を求めてしまうと、人生は決して目的に達しえない」というのは少しミスリーディング?
人生の(最終)目的という意味ならわかる
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pp. 51-52:「次に、自己目的的活動……なりうるのである。」
ここでは、「遊戯」と「労働」という概念が導入されている
「遊戯」というのは「それをすること自体に快や楽しみがある活動」であり、「自己目的的活動の呼び名として適切だ」とされている
ここからもわかるように、この論文において「遊戯」というのは「自己目的的活動」と同義だと自分は考えている
「遊戯」とか「遊戯的活動」は「自己目的的活動」と読み替えてよい
「遊戯」という概念が必要ない?
「労働」という概念も特に必要ない
結局シュリック(あるいは筆者)は「ほぼすべての活動は遊戯的活動(つまり、自己目的的活動)となりうる」と考えている
つまり、「労働」という一般的にイメージされる「収入を得るための職業上の仕事や日常生活を維持するための仕事」も、その活動自体から「喜びや充実を与えてくれるものとして自発的に求められるのであれば」、「遊戯(= 自己目的的活動)」になる
つまり、活動の内容・種類は関係ない
むしろ、「ある目的のための手段的活動」、「手段的活動」という用語は、「自己目的的活動」の対義語として使える
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p. 52:「遊戯的活動において充実感……体験となりうる。」
この「フロー」という概念はこの論文においてとても重要 チクセントミハイが「フロー」を「一つの活動に深く没頭しているので他の何ものも重要ではなく思われる状態。経験それ自体が非常に楽しいので、ただそれをするためだけに大きな犠牲さえいとわずにそれをしようとする状態」と説明し、それを受けて、筆者は「フロー」を「純粋にそれ自体を目的として活動しているときの心理的な没入状態」と定義している。 そして、この「フロー」の状態にある、「フロー体験」をしているときというのは、基本的に充実感、充足感を得られる
だから「フロー体験」のときには、「人生の意味」が与えられているといえるだろう
この論文においては、「フロー」というのが「人生の意味」を与えるものの正体
ramen.iconただ少なくとも論文の筆者は「フロー」にチクセントミハイがいうような「ただそれをするためだけに大きな犠牲さえいとわずにそれをしようとする」というほどの条件は課していないと思われる。というのも、もしそうだとすれば、「フロー体験」のハードルが上がってしまい、「ゲーム説」においても「人生の意味が与えらえる」とするのが困難になってしまう。おそらく、それは筆者の意図するところではないだろう。(2023/2/26 12:04)
前に「ゲーム説」とは「人生の意味は、自己目的的活動への没頭において得られるという考え方」だという説明があった
これは不十分ではないか?より正確には「フロー状態(体験)を伴う自己目的的活動への没頭」
というのも、(この論文には書かれてないが)、「自己目的的活動」というのは「自らの目的と価値をそれ自身の内に、いかなる外部の諸目標からも独立に持つような活動」というように規定された
これだけだと、「人生の意味を与える」とは思われないような「自己目的的活動」というのもあるのではないか?
例えば、なんとなく「右手をあげる」。本人は特に楽しいともなんとも思ってないがなんとなく「右手をあげる」という活動
これも他の何かの目的のための手段になっていないため、「自己目的的活動」といえるのではないか。
このなんとなく「右手をあげる」という活動に没頭するだけで、「人生の意味」が与えられると言われればそうではない
→ 「フロー体験」が必要。「フロー体験を伴う自己目的的活動」
細かい点。この論文では、「自己目的的活動」と書かれていれば、それは「フロー体験を伴う自己目的的活動」を指していて、上で自分が述べたようなそうじゃない「自己目的的活動」は想定されていない。
「フローを可能にする活動は多種多様であり」と書かれている通り、(後述されるが)活動の内容・種類は関係ない
ある特徴・条件を満たせば、あらゆる活動が「フロー体験を伴う自己目的的活動」になりうると筆者は考えている
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p. 54:「最後に取り上げたいのは……ゴルフはゲームとして成立する。」
「ゲーム」という概念についての説明
「没頭しうる(= フロー体験を伴った)自己目的的活動」を創造する「仕組み、ルール体系」
細かい点をいうとここでの「ゲーム」はあくまで「仕組み、ルール体系」であり、個々のゲームではない?
個々のゲームというのは、(ゲームソフト)でいえば「マリオ」・「スプラトゥーン」、スポーツでいえば、「ゴルフ」とか「テニス」とか
スーツの定義
「ゲームをプレイするとは、不必要な障害を克服しようとする自発的な試みである」
面白い。ゴルフの例が十分わかりやすい
「不必要な障害を克服しようとする自発的な試み」ということに関連して、自分が思うのは「縛りプレイ」
「ゲームをプレイする際、本来ゲーム側からは設定されていない制限(縛り)を自ら科す事によって、より難易度の高いゲームをプレイする事。(プレイスタイルの一種)」
「特定のアイテムを使わない」とか「特定のキャラクターを使わない」など
これはまさに「不必要な障害」(縛り)を設けて、それを克服しようとするプレイヤー自身の「自発的な試み」といえるだろう
なぜこんなことをするのか?
(この論文の内容に寄せて説明するならば)縛りプレイをすることによってプレイヤーは「フロー体験」をしている
先ほど、「フロー体験」、「没頭しうる自己目的的活動」には「挑戦的要素」が必要だと述べられていた
縛りプレイというのは、通常のゲームプレイでは充実感を得られなくなったプレイヤーが、ゲームプレイに「挑戦的要素」を足すことでフロー体験を得ようとする試みと解釈できる
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pp. 54-5:「スーツ自身はゲームプレイ……仕組みだと考えるのである。」
前半部分(マクゴニガルの話が出てくる前)に「目標を非効率な手段で達成することが求められるということは、ゲームにおける目標がゲームプレイの真の目的ではないことの表れである」という記述がある
補足する
さっきのゴルフの例を使うと、ゴルフというゲームの目標は「ゴルフボールを遠くのカップに入れる」こと
しかしもしこれ(= 「ゴルフボールを遠くのカップに入れる」こと)がゲームプレイの真の目的であるならば、「ボールを持ってカートか何かでカップのところに行き、それを手でカップに入れる」という最も効率的で楽な手段を使ってそれを達成すればいい
しかしそうはしないで、「クラブでボールを打つというより非効率な手段のみを認める」ということから、ゲームにおける目標がゲームプレイの真の目的ではなく、「ゲームプレイの目的はプレイそれ自体である」
マクゴニガルが提示するゲームの特徴
四つの特徴
ゴール、ルール、フィードバックシステム、自発的な参加
スーツのゴルフの話に対応させるならば
ゴール……「ゲームにおける目標」=「ゴルフボールを遠くのカップに入れる」こと
ルール……「不必要な障害」=「クラブでボールを打つ」
自発的な参加
「フィードバックシステム」の説明
活動に上の四つの特徴(条件)が備わるとき、──本文後半で言われているように──マクゴニガルは「もっとも効率よく確実にフロー感がもたらされる」、「フロー状態における幸福を最高度に与えてくれる仕組み」と考える
ここら辺の話はどのようにして「フロー体験」をするのかという話
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pp. 55-6:「スーツとマクゴニガルの議論は……践化していくべきだと考えている」
この部分は特に言いたいことはない
『ニコマコス倫理学』はアリストテレスという哲学者の著書
そこで「幸福」として提示される究極的な目的 = 「それのために他のことどもはなされるが、それ自身は他の何もののためにもなされないようなもの」というものと、「ゲームプレイ」ないしは「フローを伴う自己目的的活動」を結びつけている
「自己目的的活動」とは、「他の何かの目的のための手段としてではなく、「活動それ自身を目的として」なされる活動」であるので、『ニコマコス倫理学』で提示される「幸福」概念とたしかに重なる
スーツの著作『キリギリスの哲学』で描かれるユートピアは、この『ニコマコス倫理学』的「幸福」が実現している社会である
それはみなが「ゲームプレイ」ないしは「フローを伴う自己目的的活動」をしている社会
そしてそうした社会において、私たちは人生の目的、つまり人生の意味を保ちうる
マクゴニガル「現実の仕組みをゲーム化することによって、より多くの幸福を生み出すという」チクセントミハイのアイデアを実践するべきだと考えている
アリストテレスの「幸福」は本当に「幸福」か?
「なんとなくの行為」
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