「人生の意味に関するゲーム説の提唱」読書会
2023/02/24
そむるさんによる企画。
ramen.icon正直もう読み上げソフトは使いたくない。自分の力量のせいもあるだろうが、調声に5〜6時間(以上)は使ったので(論文の前半だけで)。
ramen.iconもし今度、別の論文で同じような企画をするとしたら、その時は自分の声で読み上げたものをあらかじめ録音して流すだろう。自分の声を聞くのは苦痛だが仕方なし。
(2023/02/24は後半まで)
ログ、メモ
人生の「意味」を「目的」に置き換えて考える
意味のある人生
活動それ自体を目的として生きる
野球選手なら、野球が楽しくて野球をしている、みたいな
活動の先に措定される何らかの状態を目的にすると、あんまよくなさそう
野球選手になるために、あるいは稼いで豪邸に住むために野球をしている
自己目的的活動
手段と目的が一致している
プロ野球選手になるのが人生の意味だ!って思ってる人がいたとしたら……
野球選手になったらじゃあどうすんの?
→ショーペンハウアー的ペシミズムに陥る
code:シュリックの発想の確信
かくして、それ自 体を目的としうる活動を見出し、それに没頭できるのであれば、もはや人生の意味を求める必要はない。それは、すでに獲 得されているのである。
かりふぁ.icon この説の人生の意味って殺人者みたいなのを否定できないというか、倫理的な徳virtueの表現が難しそう。
そむる 私もその議論したこと(ramen.iconこのとき → discoリンク)があって、この論文の筆者も否定しないし倫理や徳の表現をしないと脚注で人生の意味と区別されるとしている。 該当の脚注
一つ懸念されるのは、非道徳的な活動が欲求の対象となる場合だろう。他者に危害を与える活動に挑戦的課題を見出して楽しむような悪人は、そのような活動で人生の意味を得ていると言ってよいだろうか。客観説をとるメッツは、そのような非道徳的活動は人生に意味を与えるどころか人生から意味を積極的に奪うものだと判断するだろう(メッツはそのような事柄を “anti-matter”と呼ぶ。Metz 2013: 64参照)。しかし、ゲーム説の考え方それ自体からすれば、そうした非道徳的活動による人生の意味を否定する理由はない。
私は、このことがゲーム説にとって致命的な問題を生むとは思わない。人生の意味の有無の問題と道徳的可否の問題を分けて考えることは十分に可能だと思えるからだ。ゲーム説から見れば、悪人は悪人としての人生の意味を持ちうる。だからといって、社会が悪人を許容するわけではない。社会は当然、悪人を非難し、その非道徳的活動とそこから得られるフローを妨害するだろう。このような理解が大きく直観に反するとは思えない。本稿の2.2や2.4から分かるように、社会的価値と人生の意味を強く結びつけるメッツ的客観説のほうがむしろ、私たちの直観に反するような判断を生むと思われる。
(「人生の意味に関するゲーム説の提唱」注7、pp. 70-1)
遊戯
≒自己目的的活動
「労働」は「遊戯」のための手段になるが、また全ての活動が「遊戯」になりうるので、「労働」と「遊戯」は不調和な概念でない。
フロー
「一つの活動に深く没頭してい るので他の何ものも重要ではなく思われる状態。経験それ自体が非常に楽しいので、ただそれをするためだけに大きな犠牲 さえいとわずにそれをしようとする状態」(Csikszentmihalyi 2008: 4)
このフロー状態を伴う自己目的的活動への没頭が人生の意味である。
かりふぁ.iconソシャゲのガチャはトランスで間違いない。
フローの特徴:統制
フローによって実現する最適経験の要点は活動の「統制(control)」の感覚だと考えている(Csikszentmihalyi 2008: 3)
客観説
条件を満たしていれば本人がどう思っていても人生の意味が認められる
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ramen.iconログありがとうございます!