ロラン・バルト『明るい部屋―写真についての覚書』読書メモ
『明るい部屋―写真についての覚書』についての読書メモ
現象学的な方法によって、写真の本質を探求するエッセイ この本はバルトの批評家としての写真論とバルト個人の写真論の二部構成に分かれている
第一部
写真が再現するのは一度しか起こらなかったこと
二度とふたたび繰り返されない
写真に写っているものは、決してそれ以外のものに向かって自己を乗り越えはしない
絶対的な「個」「偶発的なもの」「あるがままのもの」
偶然、遭遇、現実界、空、如実、それ、「ほら、これです。このとおりです」
写真は 哲学的に変換する(言葉にする)ことができない
写真は同語反復的(トートロジー)[同じことを表す言葉の無意味な繰り返し] 不動である
写真が分離しがたいのは、生起した写真の中のある特定のものに、標識を与える根拠がまるでないからである(記号として固まらない)
写真の3つの実践(感動、意向)
撮ること=撮影者 写真家
撮られること=撮影された人物 幻像=spectrum(幽霊、見世物) 標的 対象から発した一種の分身=生霊
眺めること=観客 新聞、書物、アルバムなどそれと接する我々
撮影される人
私の本質は、私のいかなる像とも異なったところにある
私は、そのときどきの状況や年齢に応じて変化する無数の写真の間で揺れ動く
不安定な私のイメージが、私の自我と常に一致することを欲しているのだ
しかし、私のイメージと一致しないのは、自我の方なのである(イメージは不動である)
自我の方は分散していて、同じ場所にとどまっていない
視線の歴史
写真を眺め、自分自身を見るということは文化的混乱をもたらした
肖像画は写真と違うとバルトは言う
①写真は自分自身が他者として出現する
自己同一性の意識がねじれた形で分裂する
②自己像幻視(自覚的幻覚症のひとつ)
分身の幻想。写真発明以前の話
何世紀にもわたって神話的テーマをなしていた
写真が受け継いだ神話的遺産は写真の奥にある狂気
文化的混乱は、所有権の混乱である
写真は誰のものなのか?(撮影者のものか?被写体のものか?観客のものか?)
所有こそ人間の基礎である現代社会
写真は主体を客体(オブジェ)に変えた→客体にさせられる
写真を撮られる時に、主体でも客体でもない自分が客体になりつつあることを感じている主体である
小さな死を経験
幽霊
写真家は小さな死を恐れるために奮闘する
被写体は客体化しているので、抵抗しない
写真を撮られる時の4つの人間
①自分はそうであると思っている人間
②私が人からそうであると思われたい人間 →全て本当の自分ではない
③写真家が思う人間
④写真家が技量を示す人間
写真がバルトに及ぼす魅力、関心、閃き
冒険
ある写真は私の前に不意にやってくるもの、偶発的
活気をもたらす(写真そのものに活気があるわけではない)
鷹揚な現象学?
感情によってしか写真に関心を寄せない
自分に還元し得ないもの
バルトが気づいた写真の二重性
2つの要素は、同じ世界に属しており、不連続で異質である
①ストゥディウム(Studium)
自分の知識や教養(文化)を通じて得られる人間的、一般的関心、共示的
例.ニカラグアでヘルメットを被った二人の兵士
ニカラグア、紛争、反乱、歴史
②プンクトゥム(Punctum)
写真のうちにある、私を突き刺す、胸を締め付ける偶然、不意打ち
例.修道女
これは、ストゥディウムを破壊しにやってくるもの
自分からそれを求めに行くわけではない、写真の方からやってくる
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