ストゥディウム/プンクトゥム
ロラン・バルトが『明るい部屋―写真についての覚書』のなかで写真をめぐる経験として使用した概念。 バルトが気づいた写真の二重性
2つの要素は、同じ世界に属しており、不連続で異質である
①ストゥディウム(Studium)
自分の知識や教養(文化)を通じて得られる人間的、一般的関心、共示的
例.ニカラグアでヘルメットを被った二人の兵士
ニカラグア、紛争、反乱、歴史
②プンクトゥム(Punctum)
写真のうちにある、私を突き刺す、胸を締め付ける偶然、不意打ち
例.修道女
これは、ストゥディウムを破壊しにやってくるもの
自分からそれを求めに行くわけではない、写真の方からやってくる
https://gyazo.com/f99eb04a29ac7ff04d28ad5673e44f4f
この例ではわかりづらいかもしれない。
要は、我々は写真を眺めるときに、自分の知識や教養、関心に基づいたーー文化的にコード化された写真受容をしてしまう。 これは、自分の肉眼でとらえるときも同じで、我々の目は色々なものをみているはずだが、自分の意識したものしかとらえていないケースが多い。街で〇〇ちゃんに会った〜という場面があったとして、肉眼は後ろにいたおじさんもとらえているはずだが、おじさんが思い出されるケースはほとんどないだろう。「街」と「〇〇ちゃん」という関心に基づいた受容をしているからだ。
しかし写真はそういった人間が意識的にとらえている対象”外”のものも機械的にとらえている。街で〇〇ちゃんに会った〜場面を写真に撮ったときに、対象はもちろん〇〇ちゃんになるだろう。そしてその写真を眺めるときも、「街」「〇〇ちゃん」という関心を中心に写真を受容するだろう。これがストゥディウムである。
しかし、写真を眺めていると、我々の関心の外にあった「後ろのおじさん」が不意にとらえられるのである。これは我々が〇〇ちゃんに会った〜ときに、”みていた”はずだが、意識的にとらえられていなかったおじさんであり、無意識化にあったおじさんである。我々はおじさんを求めてないが、突如おじさんがやってくるのである。この不意打ちをプンクトゥムとバルトは呼んだ。これは自分の知識や教養、関心に基づいたーー文化的にコード化された”外”からやってくるものである
もしかしてよりわかりづらくなったのではないかと心配している
写真はそういった人間の意識”外”の現象を機械的にとらえることができる媒体で、バルトはそこに強い興味を持っていたようだ。
能動性と受動性