レスバトル
基本的に議論において論破が目的となることはない。論破は手段である。
論破は副産物では?5番地.icon
論破を目的とすることがレスバトル化であると言ってみてもいいかもしれない。
「論破は意見を通すための手段ないしその結果である」ということが建前になり、相手を攻撃したいという欲望の表出になるとき、それはレスバトルになる。
5番地.icon相手である誰々さんなんかどうでもよいが、その誰々さんを通して現れる考えが気に食わないからその考えをボコボコにしたくなる、っていうのはある。もちろん、誰々さんその人のことが気に食わないからしょうもない皮肉や曲解でなんやかんやしたがる人もいるだろうけど。結局、周りの目を気にしすぎなんじゃあないか。
「レスバトル」ーーそう呼ばれてるものが在るとしてーーなんかやるべきじゃあない。
痴話喧嘩とかも「レスバトル」なら、「レスバトル」を「レスバトル化する」のように、議論の派生態または欠如態として位置づける記述には問題がありそう。
横文字になるとなんか重要な問題とかテーマになるみたいなんにすぎないんじゃないか。レスバトルを和訳すると要は口喧嘩か何かだろうから。
しかし、「お前アホか」「あ?」「なにが、あ、じゃボケ」「お前がーー」「ハッキリしゃべらんかいやダボが」のような、口喧嘩にありそうなやりとりよりは、「レスバトル」と呼ばれてるもののほうがテーマはあるからか「議論」っぽい感じはある。
議論の参加者が熱くなってる(ように見える)だけのことまで「レスバトル」と呼んでるなら、「あーレスバトル化しちゃってるなぁ」みたいな「レスバトル」という語の使用は、モラリストを気取るには便利そうだ。
「よし、議論からレスバトル化したぞ」みたいなんはそうそうない。「レスバトル」は良いものとしては見なされていない。議論より「レスバトル」のほうが有益であることは不可能か? 不可能ならそれは何によって?
レスバトルとしてのレスバトル
これに参加する人は自らがレスバトルと呼ばれる行為をしていると自覚している
この文脈では「レスバトルを楽しむ」などと言える。
ゲーム要素がある。例えば、勝ち負けがある。駆け引きがある。テクニックがある。
このサイトを読んで思い出した
ここでの「生産的」(「知的生産」?)という言葉に若干違和感がある。
上のページを見るとどうやら「知的生産」という言葉には独特な意味合いがあるらしい。この独特な意味における「生産的」議論の話をしているというのならまあわかる。ただそうなるとここで言われている「議論」は個人的にはブレーンストーミングに近い印象を受ける。 上で引用されているのは以下の文章
知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ
つまり、ここでの「生産的」は「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら(「情報」)を、ひとにわかるかたちで提出すること」であって、「勝つための議論」はそういう意味では「非生産的」であると言いたいのだろうか。
結局自分は何が言いたいのかというと、↓に書くように、上のページでは「コスト」・「非生産的」とされているような、「穴をつく」ことやそれに対して防衛することも、議論において重要だし(上の特殊な意味ではない、ある意味においては)「生産的」なのではないかということ。
たとえば、他者から「批判」され(上のページの表現では穴をつつかれ)、自分の立論の足りないところやあるいは誤っているかもしれないということに気づくこと、また他者からの反論を想定してあらかじめ自分の立論を補強することなど、少なくとも自分にはどれも「生産的」に思われるのだがどうなんだろう。
生産的だと思いますよnishio.icon
数で例えると、0と1と100があるときに、1は「0ではない」という意味で「生産的」
一方でこの記事で「Xは生産的だ」って書いてるのは「Xは100だ、1や2と比べてかなり生産的だ」の意味
他者からの反論を想定してあらかじめ自分の立論を補強することなど、少なくとも自分にはどれも「生産的」に思われる
これが1の生産性
人間の使う言葉って割とボロボロだから、穴をつこうと思えば簡単に突ける。それを防ごうとすると防衛にすごいコストがかかる
これを踏まえて「そのコストをかけずに有益な結果が得られる議論」は100の生産性
ramen.icon次のようなことを思いました。
改めて上のページを見返したのですが、
この記述を考慮すると、やはりここで問題にされているのは、ある時間にどれだけ多くのアイデアなどを生産できるか、という「量」の話なのでしょうか。もしそうだとすれば、批判や反論を気にすることなくアイデアを出せるような議論の方が「生産的」だというのは理解できます。そして上でも述べましたが、ブレーンストーミング的な発想だなと自分には思われます。
ただ、次のように考えることもできるのではないかと思います。例えば、同じ一つのアイデアだとしても、それが生まれたばかりで荒削りの状態のものよりも、他者から批判されそうな(あるいはされた)問題点(「穴」)について考慮を巡らせ、それによって改善されたアイデアの方が「質」が高いということは想像に難くないと思います。
なので、あくまで上で述べたような「量」的な観点という限定付きでの「生産性」を考えるのであれば、「批判や反論」がコストになるという考え方はわかります。しかし、そのような限定を抜きにして、一概に「批判や反論」のない議論の方が「生産的」だ、とは言えないのではないかと思います。