ラブレーの生涯
フランスの物語作家、医師。フランス・ルネサンス最大の傑作『ガルガンチュワ‐パンタグリュエル物語』の作者。その影響は同時代の物語作家はもちろん、ラ・フォンテーヌやモリエールからスウィフトやスターン、さらにバルザック、現代のセリーヌ、クノーに及ぶ。トゥレーヌ地方シノンの新興ブルジョア地主で同地裁判所付き弁護士を務めたアントアーヌの末子として、同市近郊ラ・ドビニエールの別荘(現ラブレー記念館として公開)で生まれたとされるが、生涯には不明の点が多く、生年についても最近1483年とする旧説の支持者が増えつつある。いずれにせよ遅くとも1520年には修道士としてポアトゥー地方フォントネー・ル・コントのフランチェスコ会修道院にあり、哲学・神学を学ぶかたわら、当時異端思想の源として危険視されていた古代ギリシア語を独習し、ヘロドトスのラテン語訳を試みたり、フランスにおける古代研究の最高権威ビュデと文通したりしている。ついで20年代なかばには学問的伝統を誇るベネディクト会に移り、ポアチエに近いリギュージェ修道院長の秘書役としてこの地方の学者・文人との交遊を深め、フランス語の詩作を試みている。しかもいかなる理由によるものか、1527~28年ごろには許可なく修道衣を捨てて在俗司祭となり、パリその他で医学修業を始めたらしい。 生涯の軌跡をいくらかはっきりとたどれるのは、1530年ラブレー36歳(または47歳)以後の後半生に限られる。この年の秋、伝統あるモンペリエ大学医学部に登録した彼は、11月医学得業士(バシユリエ)となり、翌年春学期には同医学部史上初めて古代医書をギリシア語原典に拠(よ)って講じ、聴講多数に上った。ついで32年にはリヨンに現れ、6~9月の間に『ヒポクラテスならびにガレノス文集』翻刻注解など三点のラテン語学術書を公にし、11月同市市立病院医師に任命された。さらに37年にはモンペリエ大学から医学士号と博士学位を相次いで与えられ、死体を用いて解剖学を講じた。当時実際に人体を用いた例はなお珍しく、彼が同時代の詩人・人文主義者たちから当代きっての名医とたたえられたのもうなずける。 人生のなかばを過ぎて古典学者・医学者として認知されたラブレーは、これと並行してやがて大きな連作となるべき物語の最初の一巻『第二之書パンタグリュエル』(1532)を変名で出版し、また医学博士・占星学教授という誇大な肩書付きの本名で『1533年の暦』『1533年のパンタグリュエル占筮(せんぜい)』なる戯作的小品をフランス語で発表した(1532~33)。ラテン語こそは文化と教養の言語であり、フランス語は低次元の俗語にすぎないとする通念がようやく揺らごうとしている時期だった。ラブレーは『第二之書』において民衆的な笑いと人文主義およびスコラ哲学・神学の学殖とを巧みに織り交ぜ、あらゆるレベルのフランス語散文を駆使してその可能性を探っているかに思われる。本書は一般に好評を得たものの、人文主義者のなかにはラブレーが軽率にも学者の正道を逸脱したとして厳しく批判する者もあり、さらにパリ大学神学部の一教授は、本書を「ふとどきな(または猥褻(わいせつ)な)」書物と弾劾した。以後ラブレーが新作を世に問うたびに、神学部は発禁処分に付し、作者は逐電・亡命を余儀なくされる。 しかし幸いにもラブレーは、自ら人文主義者で宗教的寛容政策の推進者であった国王側近の重臣デュ・ベレー兄弟の庇護(ひご)を受けることができた。1534年、35~36年、47~49年の三度にわたり、弟のパリ司教・駐ローマ大使ジャンJean du Bellayの侍医兼秘書としてローマその他に同行し、51年ラブレーは二つの司祭食禄(しょくろく)を与えられている。また39~40年、41年、42年には北イタリアのピエモンテ地方総督代理となった兄ギヨームGuillaumeに随行してトリノに滞在している。これらの体験はラブレーの視野を政治・文化・宗教・社会の各面にわたって拡大、その思索を刺激し、その後の作品に多大の寄与をすることになった。最初のイタリア旅行後に刊行された『第一之書ガルガンチュワ』(1534)を同工異曲の処女作(第二之書)と比較した場合、その差は明白であり、この第二作において作家ラブレーは真の己をみいだしたといえよう。 1530年代後半以後はカルビニズムの成立と発展に伴う異端弾圧激化の時代である。福音主義信仰を守りつつ、公式文化の硬直と欺瞞(ぎまん)を滑稽(こっけい)化したラブレーは、当然教会権力から危険人物視されたし、彼が壮大に表現した生の賛歌は教条主義化したカルバン派の気に入るはずもなかった。長い沈黙を経て発表された『第三之書パンタグリュエル』(1546)と『第四之書パンタグリュエル』(1552)とは、作家の円熟と同時に、こうした時代を生き抜いた彼の苦渋の影を色濃く宿している。52年秋ラブレー投獄の噂(うわさ)がリヨンに広まり、53年1月彼は二つの司祭食禄を辞退、その後の消息は知られていない。 教会派でありながら反宗教派、キリスト教徒でありながら自由思想家、医者でありながら陽気ぐらしと、その人格は時に矛盾しているように見える。宗教改革という政治的・宗教的混乱に巻き込まれたラブレーは、当時の重大な問題に対して敏感かつ批判的であることを示した。その後、時代や思想の流れによって、彼の人生や作品に対する捉え方は変化してきた。
エラスムスを敬愛し、パロディと風刺の名手であったラブレーは、寛容、平和、福音的信仰、そして中世を特徴づけていた「ゴシックな暗黒」を超えて、ギリシャ・ローマ古代の知識への回帰を求めて戦い、プラトンのテーゼを取り上げて、アリストテレスの行き過ぎに対抗している。王侯貴族や教会関係者の弊害を攻撃し、一方では福音的なヒューマニズム思想で対抗し、他方ではワインや遊戯を好む大衆的で下品な「遊び好き」文化で対抗し、教会的重苦しさから離れた謙虚でオープンなキリスト教信仰を示しているのである。 ソルボンヌの神学者たちを非難し、粗野で時に卑猥な表現は、特に『ティア・リーヴル』の出版後、検閲官の怒りを買うことになった。スコラ哲学や修道院制への批判はプロテスタントと共通していたが、宗教改革者ジョン・カルヴァンも1550年に彼を攻撃している。 『パンタグリュエル』(1532)、『ガルガンチュア』(1534)などの代表作は、年代記、巨人の登場するおとぎ話、ヒーロー・コミックのパロディ、叙事詩、騎士道小説の要素を持ちながら、リアリズム、風刺、哲学小説の先駆けとして、近代小説の最初の形態の一つと考えられている。