なんでも許すのは「退廃」ではないか
根底にある規範
互いの悪を許せず互いにぶつかるのが健全
間違いを見つけたとき、「あ、間違ってる」と思い、「間違ってますよ」と指摘するのが健全
退廃の意味
不健全である状態
「不健全」とは?
美しいものを美しいと見ず、正しいものを正しいと見ず、歪んだ目でものを見ること。
怒りを覚えて怒らず、悲しみを覚えて悲しまず、喜びを覚えて喜ばない、倒錯的な歪んだ状態。
切り出し元:from ネーミングの問題って微妙なところを突いている
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なんでも許す形態は瓦解する(寛容のパラドックス)としても、しかしまた不寛容も退廃(不健全)ではないか?(く)
間違いを見つけたときに「間違ってますよ」と指摘できるのも、「間違ってますよ」と指摘することが許されている環境ゆえにできることなのかな?と思いました。
これは重要な指摘だと思う久住哲.icon
「決定的に許さない」という状態が固定化することを避けるべきだと思うから。そしてこの回避は、環境づくりの一環だと思うから
「あのときはごめん。また話そう」「まったく、しっかりしてくれよ。まあいいよ」となったほうがいい
そのような「環境」はそもそも無いのではないか、と思いはじめている。それを許すとか許さないとかは、個々の言動……「指摘するな」という命令や手による制止……である。そういった個々の行為が繰り返されるのを目にした人が、その場全体がそのようなものであると把握したとすれば、それはその人の心的習慣形成であって、やはり「環境」ではない。久住哲.icon
うん、なんでも許すのは「退廃」ではないか#62e405a47ab60000000d793cは自分でも何言ってるんだろうって今見たら思う。(く)
以前と考え方が変わって、なんでも許すのはよくないとは思うようになった。ので、この記事には賛同する。
uvoa.icon心理的安全性か。
整理
間違いの指摘は不寛容である
不寛容に寛容な環境がある
この寛容な環境は健全である
この環境は何でも許す環境かもしれない
だが健全であるかもしれない
カウンター:なんでもいいですよ そのまんまでいいよ