『特性のない男』の話
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stable diffusion によるイメージ
『特性のない男』はおおまかに前半と後半にわけられまして、前半は徹底した現実批判、それもアイロニー、皮肉ですね、これを使って我々の生きている世界を極限まで批判して確実な認識をえぐりだそうとするわけですけれど、 後半はその索漠たる現実に俗にいう神秘主義、つまり千年王国、ユートピアですね、これを打ち立てようとする試み、なんていわれますけれど、しかしこれは神秘主義といっても一概にたんじゅんなロマンチシズムやアナクロな夢想ではないのではないか。
じっさいに読んでみると、そこには確固たる心理学や認識論による土台が築かれたうえで、そのユートピアへの志向がなされている。そして前半よりも厳しい批判がその志向自体に向けられているわけです。後半部の執筆が滞ったのはここに訳があるのだと思う。ユートピアへの志向=記述された思考そのものへの批判をするわけですから。
しかし内容の質の面からいったら、ますますそれは磨き抜かれたものとなる。絶筆部分が近づくにつれ、それはますます輝かしいまでの記述になるわけです。しかもそこには自己陶酔も自己否定もありません。
↑追記:読み返していると、序盤から質はかなり高いと気付いた
われわれは二つのことを考えるべきだと思います――特性のない男は完結しなかったが、それはとびきりの量と質をそなえた何かではあると。もう一つ、しかしだからこそ完結しなかったのだ、まぎれもなく未完結の何かがわれわれに残されたのだ、と。
これはわれわれにまた二つの感情を抱かせると思います――すなわち慎重さと、活力とを。慎重さとはムージルの仕事を前にした謙虚さであり、ムージルと同じ轍を踏むか否か、という選択の余地です。活力は、われわれはニヒリズムやペシミズムに陥ることなく、現代を冷徹にユーモアを交えて見ることができるし、その先に、小説内の分量はわずかながら、確かな道筋を確かめることができるのです。
『特製のない男』の日本での人気のなさ(流通の少なさも含めて)はどういうことだろう、文学者に紹介者が少ない、古井由吉は単著も書いているがいぶし銀である。いっそ村上春樹とか人気作家が(気の利いた)紹介してくれればナア こういう小説を書く作家はしばらく現れないし、読者も増えることはないだろうナ、と思いつつ……(具体的には大きな問いを立ててそれに厳密かつ芸術的に表現しようと取り組む姿勢と力を持った作家≒読者)
メモ:物語→記憶の芸術 小説→忘却と想起の芸術 エッセイスムスの散文→試みの繰り返しと進展の芸術 しかし、いずれにせよこの本はいわば一歩ごとに私を釘付けにしますし、私はしばしば数ヵ月も同じ困難なディテールのまわりを回ってしまうので、いちど精神を無拘束に任意のあらゆる方向に向って動かしたい、そして、このような多面性によって歪んだ生長から守りたい、という欲求が時としてほとんど耐え難くなります。『書簡集』