『特性のない男』の構造の紹介
『特性のない男』の構造の紹介
『特性のない男』はおおまかに前半と後半にわけられまして、前半は徹底した現実批判、それもアイロニー、皮肉ですね、これを使って我々の生きている世界を極限まで批判して確実な認識をえぐりだそうとするわけですけれど、 後半はその索漠たる現実に俗にいう神秘主義、つまり千年王国、ユートピアですね、これを打ち立てようとする試み、なんていわれますけれど、しかしこれは神秘主義といっても一概にたんじゅんなロマンチシズムやアナクロな夢想ではないのではないか。
じっさいに読んでみると、そこには確固たる心理学や認識論による土台が築かれたうえで、そのユートピアへの志向がなされている。そして前半よりも厳しい批判がその志向自体に向けられているわけです。後半部の執筆が滞ったのはここに訳があるのだと思う。ユートピアへの志向=記述された思考そのものへの批判をするわけですから。
しかし内容の質の面からいったら、ますますそれは磨き抜かれたものとなる。絶筆部分が近づくにつれ、それはますます輝かしいまでの記述になるわけです。しかもそこには自己陶酔も自己否定もありません。
↑追記:読み返していると、序盤から質はかなり高いと気付いた
われわれは二つのことを考えるべきだと思います――特性のない男は完結しなかったが、それはとびきりの量と質をそなえた何かではあると。もう一つ、しかしだからこそ完結しなかったのだ、まぎれもなく未完結の何かがわれわれに残されたのだ、と。
これはわれわれにまた二つの感情を抱かせると思います――すなわち慎重さと、活力とを。慎重さとはムージルの仕事を前にした謙虚さであり、ムージルと同じ轍を踏むか否か、という選択の余地です。活力は、われわれはニヒリズムやペシミズムに陥ることなく、現代を冷徹にユーモアを交えて見ることができるし、その先に、小説内の分量はわずかながら、確かな道筋を確かめることができるのです。