『波』読書会メモ
ヴァージニア・ウルフの『波』メモ
ざっくり
あるものとあるものの交信
6人の独白と人生、波
『波』登場人物
響きあい
波と文章
恋愛・嫉妬・羨望・憎しみ・愛・友情
テキストのリズムが勝っているので、内容を見落としやすい
ベケット
変化
光
反理性、秩序
リズム
リズムは反復ではなく、更新されていくもの
適当ではなく、意図的に
プレイポエム(劇詩)というように、まるで小劇団の舞台演劇の台詞のように高密度で心象風景や記憶の明滅が語られて非常に難解です
複数の語り手混在
6人の語り手の6人の視点
ポリフォニック?
パーシヴァル
不在の人物で、登場人物たちはパーシヴァルについて間接的に語ることで交流することができる
灯台への夫人のポジション
これは、朝井リョウ、桐島部活やめるってよ
村上春樹も使う手法
ドライブマイカー(妻、車、テープ) ノルウェイの森 多崎つくる 
犠牲の人物
供犠
死によって、死を通じて心を通わせる
社会
文学もひとつの供犠
語りにより交信する
ウルフ自体が書くことで、費やすことで生贄(媒体)にもなる
孤独 隔絶 非連続性
空虚
人間がなくしたざわざわした動物性、連続性への回帰
エロティシズム
もしくは自然のリズムへの回帰
死んだあとに自然のリズムになる
未知なるリズム
波
ひとつになる
イギリス人にとっての海
とても簡素な問いだが
普段自分の頭の中は孤独
しかし、孤独なものをつなげることが文学には可能
しかし、それはウルフという孤独により書かれている
連続性と非連続性(孤独)の揺り戻し
分離と統合
人間の孤独、もしくは交流を表現する場合、物語の中で裏切りなどをやる語るやり方などがあるが
ウルフは、もっと小説の形式によりそれを明るみにしようとする
少年少女
最初 幼少期 未分化的なもの
徐々に秩序立ってくる
人生
成熟した理性的大人の世界だけじゃない
事物の観察
見るということは、ものとの間に虚無を抱えること
倦怠
動物はかんぺきに繋がっているが見えない
しかし、完全に隔絶されているのか?
ものを見ることで、その対象から自分を見る、見ている自分がいる、自分が見られる
訳注から、
引用が多いとわかる
シェイクスピア(ハムレット)
Tsエリオット
バイロン
イェイツ
シェリー
フレイザー
プルースト
聖書
キーツ
ウルフ自身に関係した描写も多い
ほかのものとの混ざり合いの話が共通してある
他人と、自然と混ざり合ったり
波と混ざり合ったり
人それぞれの感性で語る
言語化により、喪失するもの
一回性
小説家は複数の人格を描く(多重人格)
メタモルフォーゼ
また小説家は人間だけでなくいろんなものになれる
自然
ウルフ自身が他人になって、他人の視線からものを見ようと、書こうとしている
人と同じになろうとするが、その人にはなれず、また戻ってくる
幻
物語作家
バーナードの視点=ウルフの視点
メタ的
バーナードというキャラクターの混濁具合
一人称が、ぼく、おれ、わたしなど変化する
終盤はわたしとなるが、別人の雰囲気もある
バーナードの一人称は変化している。ほかの語り手はたぶん変化していない。
「ぼく」(幼年期)「おれ」(青年期から中年期)「わたし」(終盤)など。英語だとすべて「I」なんだろうから、翻訳者が意図的に使いわけているんだろう。年齢による変化を表現したかったというのはあるだろうけど、この使いわけは気にる。
特に終盤の「わたし」は非常に気になっていて、語り方もそれまでとはまるで別人になったかのように感じる。それまでの「おれ」が前面に出ている男性的なバーナードと違って、「わたし」という幾分物腰の柔らかな中性的な雰囲気である
とはいえ私が見知らぬだれかと出会い、このテーブルで、私の人生と呼ぶものを打ち明けようとするとき、私が顧みるのは、ひとつの人生ではないのですよ。おれはひとりの人間ではない、多くの人間だ。自分が何者なのかすらまるでわからない──おれはジニーであり、スーザン、ネヴィル、ロウダ、あるいはルイでもある。そうでないとしたら、どうやって自分の人生を彼らから切り離せばいいのだ。
わたしとおれが入り混じっている
ルイやロウダとの隔絶
ロウダが長方形と正方形の話をするが、これがイミフという話
読書会でも話題になった
わたしも意味がわかりません。
なので、ちょっとネットで読める論文を読んだりしたのですが、ロウダはどうも何か輪郭のはっきりした、固いものに触れることで、自分自身の離散を防いでるようなんです。その象徴として、最終的に長方形と正方形の自身の棲家を形作っているようです。
「ここに水たまりがある」とロウダ、「わたしはそれを飛び越せない。頭のすぐ横で、巨大な碾臼が激しく回るのが聞こえる。その風が、わたしの顔へと唸り声をあげ、吹きつける。知覚で捉えられる生命の形は、すべて失われてしまった。手を伸ばして何か固いものに触れなければ、果てのない回廊を永遠に吹き飛ばされていってしまう。だとしたら何に触れたらいいの? どの煉瓦に、どの石に触れたら、巨大な淵をのり越えて、自分の身体へと安全に戻れるの?
このくだりから、ロウダはオックスフォード・ストリートを歩きながら、静寂の小部屋、ガラスの展示ケース、コンサートホールなどのいくつかの形状を経て、(このあたりのロウダの話はかなり混沌としています)、混沌をおさめる長方形と正方形の完璧な居場所をつくります。
このあたり、パーシヴァルの贈り物のスミレの花束も連続するので、これも関係してるでしょうね。
どうもロウダは水と関係しているようです。
幼少期に水盤に花びらをゆらゆら揺らしており、バーナードは彼女を泉の妖精と表現している。しかしバーナードの泉の妖精という表現が出てくるとき、幻影という言葉が近くにある。
ネヴィルは同性愛者なのか?
ぼくも本書を読みながらネヴィルが同性愛者と判断できるか疑問だったのですが、いくつかの箇所を読み直してみると
ネヴィルのパーシヴァルへの激しい愛情は、繰り返し述べられていて
また、終盤にバーナードから、ネヴィルが「数限りない男たちのなかから、過ぎ去ったすべての時のなかから、彼はただひとりの人を、ただひとつの瞬間を選び出したのでした。」と語られている
ので、このあたりから、ネヴィルが同性愛者だと判断しているのかもしれませんね。(僕がざっと見つけたのはこんなとこで、もっとより明確な描写があるかもしれません)
海辺の日の出から日没の時間(一日?)と、6人の人生の一生が、交互に語られる
灯台へでもそうだったがとても長い時間の流れと、短い時間の流れを組み合わせている
複数の時間の流れを組み合わせることができる小説という媒体
現象を哲学とは別のやり方でほりおこす
なぜ、こういうことをするのか
われわれは、短い時間と長い時間(一生)を同時に体感するいきものだから
食卓、テーブルと光
ひとつになるサイン
灯台へでも共通
祝祭p137
擬人法
ある事物がほかに影響をあたえて、伝播していく
動的
脚注が充実
終盤に来る新しい人とは何か誰か
6人のキャラクターには違いがあるけど、6人の独白に共通しているのは観察眼と、それに基づいた記述かな。目に見えるあらゆる物が、波のようにあらわれては渦巻いて砕け、儚く消えていく。
6人の独白のみで語られるこの小説は、6人の肉体をあまり感じない。精神性のみで成り立っている、ゴーストのようだ。
ウルフもそういう風に世界を見ていたのだろうか。
鳥
コールアンドレスポンス
終盤の語り合いは分離していた6人が溶け合うような空気を感じさせる
「まるで奇跡が起きて」とジニー、「人生が、いま、ここに、静止したかのよう」
「そして」とロウダ、「これ以上生きなくてもいいみたい」
「いやしかし聞くのだ」とルイ、「無限なる宇宙の深淵を通り抜けていく地球の音を」
バーナード 人生=球形の実体
ふたたび顔が浮かんできます──顔また顔が──その美しさを、私の泡に押しつけてくる──ネヴィル、スーザン、ルイ、ジニー、ロウダ、そのほか幾千もの顔。それを秩序立てて制御するなど不可能。ひとつを切り離すなど、全体の効果を与えるなどとても不可能──そう、これまた音楽のようなのです。
バーナードのフレーズは、物語(小説)になっていく
ウルフの分身
最後のバーナードの語りは、もはや彼ひとりの声ではない。6人の混声であるばかりか、それ以上の人々の声の合唱なのだ。その意味では、『波』はまちがいなく多声的ではある。しかし、この多声性は、その絡まり合いや響き合いは、こう言ってよければ、混成的な単層である。自由間接話法が作り上げる重層的な密度——角度によって、単層にも見えれば、複層にも見える――とはまったく別物である。
6人の具体的な内容は比較的省いてある
バーナード ロウダ 対
バーナード 波のように他者とまざりはじけあいながら
ロウダ 人目をおそれ 孤独
ここでのバーナードは、バーナードといっても、バーナードとは言えない複数の人格がある混ざり合ったもの、男女差もない
とロウダ
この男女的な性差から離れた複数性は、これまでの小説とはかけ離れたもの
バーナード
みんな同一>大人になり独立>またひとつに
ヴェールを剥がす
>  「さあ、栄光の歌声をあげよう。素晴しきかな、孤独よ。さあ、ひとりでいるのだ。存在に覆いかぶさるこのヴェールを、昼も夜も、昼じゅう夜じゅう、微かな風のそよぎにも形を変えるこの雲を振り払おう。ここに座っていたあいだにも、私は変わりつづけていたのだ。変わりゆく空をずっと見上げていた。雲が星を隠しては解き放ち、また隠すのを見ていた。いま変化をやめた雲を見ている。いまはもう私を見るものはだれもおらず、私は変化をやめた。素晴しきかな、孤独よ、それは視線の圧迫や、肉体の誘惑や、噓やフレーズすべてから解放してくれたのだ。
セルフのない男 実体のない
ニーチェからの引用
永劫回帰
回帰性?
永遠なる再生
滅びるというのは、死であり、全体性を取り戻すというのは、現れては消える、おしくらまんじゅうする波の運動に戻っていくということであります。波の運動は、ヒエラルキーのない、統一された全体を持っていると考えます。
6人が溶け合い〜と書きましたが、一応最後はバーナードの独白で終わるので、バーナードの話をします。
バーナードの生というのはフレーズを繰り返す虚構の物語ですが、最後のほうにバーナードの自己(セルフ)は何も答えず、どんなフレーズも返さなくなります。これはバーナードの欺瞞的な閉じた物語が終わりを告げ、死を予感させます。
そして実際に死が訪れるときバーナードは抵抗しますが、波に流され、砕け散り、滅びます。これは波という全体の運動に戻るということです。
滅びると書きましたが、最後にあるバーナードの死の前に夜明けと再生が示唆されているので、正確には再生される予感で終わります。そして冒頭に戻るという再帰性があります。
この小説の6人の閉じた内的な独白自体が、外部から見ると波という全体の運動を構成しています。
独白という部分が波という全体となり、全体が部分を超越した実在として理解される一方で、それは各部分の特質を土台にした統一体であるとされます。
わたしも思いつきで発言しているので、なんかずれてるかもしれない。納得いただけるような説明ができていなかったら申し訳ない。
そして実際に死が訪れるときバーナードは抵抗しますが、波に流され、砕け散り、滅びます。これは波という全体の運動に戻るということです。
滅びると書きましたが、最後にあるバーナードの死の前に夜明けと再生が示唆されているので、正確には再生される予感で終わります。そして冒頭に戻るという再帰性があります。
またしても目の前に、いつもと変わらぬ通りが見える。文明の天蓋は燃え尽きている。空は磨かれた鯨骨のような暗闇。おや、でもランプの灯か、暁の光か、空の一点が明るんでいるではないか。何かのかすかなうごめき──どこかのプラタナスでスズメが囀っている。明け初める気配がする。夜明けとは呼ぶまい。通りに佇み、めまいを覚えつつ空を見上げる老人に、街の夜明けなどいったい何ほどのものだ? 夜明けとは空が白むことだ。一種の再生だ。新たな一日。新たな金曜日。新たな三月二十日、あるいは一月か九月の二十日。あまねく新たに目覚めるのだ。星々は退き、消えていった。水面の筋は波間に身を沈めてゆく。朝靄のうす絹が野にたち籠める。薔薇の花々に、ベッドルームの窓辺に咲く淡い一輪にさえも、赤みがさしていく。一羽の小鳥が囀る。小さな家の人々が暁の蠟燭を灯す。そうだ、これが永遠なる再生だ。絶え間ない上昇と下降、下降と上昇なのだ。
バーナードの最後の言葉のなかにある「死が敵なのだ」は新約聖書にある表現だったり、また「おお、〈死〉よ!」はジョン・ダン『聖なるソネット』の言葉と呼応してるみたいなんですよね
聖なるソネット10(死よ驕るなかれ):ジョン・ダンの詩の和訳
この辺りから、死との対立軸、不死性があるのではないかという話
パーシヴァル 神?超越的なもの 外的存在
パーシヴァルという中心によってなっていた
絶対的な他者を欠いた6人は、自己の物語に閉じこもった半端な存在である
欺瞞的な、閉じた物語というのは人間の人生のあり方そのものを描いている
読書会では、この小説のラストを巡る議論、バーナードは死んでいるのか?いないのか?
再帰性と不死性の議論があった
これは『自分ひとりの部屋』にあるウルフの言葉
これから出てくるのは、言うまでもなく実在の事物ではありません。オックスブリッジは架空の地名ですし、ファーナムもそうです。「わたし」も、実在しないだれかを表す便宜上の呼称にすぎません。わたしの口からは噓が溢れ出ますが、中には真実もいくらか混じっているかもしれません。その真実を探し出して、取っておくに値する部分があるかどうか、決めるのはみなさんです。もし取っておかなくていいと思うのであれば、もちろんすべて屑箱に放り込んで、忘れてくださってかまいません。
『自分ひとりの部屋』がおもしろいのは、ウルフがシェイクスピアの妹であるとか、架空の人物(女性)の短い物語を作り上げながら、女性と文学のテーマについて話すことで、このやり方は学者の講演なんかとはちょっと違う。研究分野の人が実証や事実に基づいて話すのに対して、虚構に基づいて話すというのは、文学のやり方のひとつではあるんだろう。
『波』もまた虚構であるが、わたしは『波』を読んでいると、本書の感覚と近しい感覚をわたしの中に感じたりする。
物事がどのように意識にあらわれるかは哲学にもある分野だけんど、ウルフの文学は虚構をもちいてそれを書いていくようなとこがあって、物事の"意識のあらわれ"そのものもないまぜになって体現されてるかんじ。