『死靈』における「居心地の悪さ」の表象
とすると、疑問が生じる。『死靈』における「居心地の悪さ」とはどのように表象されているか? こうやって、具体的な「場面」や「描写」を洗い出して分析していくことができる。
哲学(書)も文学(書)も従属関係にはなく、互いに参照し合いうると考える。
門外漢の私が『存在と時間』をカジカジしているのも、こうした旨味が沁みだしてくることを期待してのことで、実際に苦みと旨味が同時にする。
ここで仮説を立ててみる。死靈の山場前、一章~四章の内に、特にその「不快、不安、不気味、くつろげなさ、居心地の悪さ」の基本モチーフが提出されているのではないか。
なぜそう予想するか。
五章という山場へ展開を持っていく、その駆動力となるのは、基本的なモチーフの喚起力と連想力、構造性であり、そのためには序盤全四章でそれらが提示されていることが必要とされるから。
何度か読み返した感じ、そんな感じがするから。
家がひどいから居心地が悪い、というのは存在の不快に基づくといいにくい。
むしろ不快から派生してどこにいてもくつろげない、という状態の方が、より深刻な居場所の無さだろう。
つまり、主要登場人物、彼らの生い立ちのクロニクルを辿っていくということよりも、彼らの現に実存として在る在り方を観察し、分析することが肝要と思われる……
われわれは、日常や常識から逸脱した時、ガツンと何か存在の壁ともいうべきものにぶつかり、ペチャンコにされ、一本とられるのであるが、そのことを経験し認識し決断しているのは神でも親でも社会でもなくわれわれ私であり、その敗北の体験から不快の手ごたえを学ぼうとも、そのことで世界から拒絶されたような感覚に陥ろうとも、あくまで存在への探求を止めてはいけない。
逸脱した先に自由はない。それは存在の壁がぶ厚く、強力に圧してくるからだ。そこに生まれや環境は関係がない。しかし自由がない絶望こそ存在を露わにする契機になりうる。
ぼくは観念的というより、やっぱりロマンティックに意志的な人間と捉えたくもあるんですよね。与志らを。つまり本来はもっと人間たりうべき、というか人間を超えた人間たりうべき人間を夢見てはいるんだけれども、やはり実際に感性と悟性でとらえうる私、ひいては人間一般は人間もしくは人間以下→かさぶただらけの犬にも若かぬかもしれぬ。誰ぞクレチン病の少年を超えんや。
そこで与志らは意志的に、超越した生か、然らずんば死か、という苛烈な「観念的(ここでやっと出た!)」な極道を選び取った……と見ると、ちょっと哲学的ヤクザ・ロマンな香りも漂ってきて、沈鬱なほの暗さに薔薇の赤みも添えられるというもの(?)
彼らは20世紀の落とし子、決然たる思想的アウトローなのだ!……と見なしてもみたひ
と書いてて気づいたけど、決然たる自傷的存在論者という点で、アウトロー・アウトサイダー的な血脈なのだんね、彼らは。
埴谷の日本における特殊性/埴谷が特殊たる日本の特殊性みたいな話になると、けっこう苦しくなってくる。それはつまらない問題だからというより、どうも深淵な問題が潜んでる/近づいてるからだからと思われる。ただあまりにも語りふらされてきた/語られてこなかったからこそ、ガビガビに穴がそこらにあって、思考をさえぎって/逸らしているんだと考えられうる。
八章。創造的虚在=虚体は、無限大変幻を絶えず呼び出す。無限大変幻は誤謬の宇宙史=存在の歴史性を抉り出し、新たな宇宙を生み出すといったものだらう。とすると、やっぱりこれ虚体論は一種の芸術論創造論みたいにもなってくね。
「まるで果てしないことのように思われる。だが『私がより私である時間が欲しい』という願望を持ってしまったものは、絶えずこの挑戦を試みなければならない。つまり、私は時間を信じていた。」
村上春樹作品における居心地の良さの追究と、心的形象の造形化の関連
メタフィジカルなものを物象化する力
漫画が行っている形象化
ハイデガーは、夢物語でない人間の説得の仕方を心得ているようにみえる。
ニーチェのプロジェクトとハイデガーのプロジェクト
どれだけ明晰な方法でも暗示せざるをえない領域があり得るかもしれないということだ。
ハイデガーは書いてる以上のことを気づいて知ってるな。
ニーチェに対して彼が言っているように。
別になくてもいいが、彼にも危機があったんじゃないか。
文学は虚無、端的に無、絶対の無、そういうものを存在から摘出して展示しようとするところがあるんだが、哲学のさしむけた問いに答えない形で好き放題やっても時間をいくらかけたって試みを繰り返すだけ、ということになってしまう不安がなければ、無は書けないだろう。
孤独の戯れということになってしまう。
文学の公共性とかいうものを一度滅殺しなければ、もう何も書かれないし読まれないだろう。
三輪家
津田家