『倶舎論』の分析の出発点
参考:『仏教は宇宙をどう見たか』
大乗仏教圏の一員である日本仏教では、「この世のものごとや因果束には実在性がない」という説が盛んに強調され、「すべては空である」という言葉を耳にする。
しかしこれは大乗仏教に特有の主張であり、『倶舎論』はそうではなく、「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と考える。
「家」と「自動車」などは虚構存在とされる(これを「仮設」という)。→自動車は存在していると思う??
それらは様々なパーツ・部品の集合体に私たちが勝手に名称を与えて呼んでいるに過ぎないものだから。
自動車をバラバラにすると、ボディやエンジンやタイヤなどに分解され、元の自動車は消滅する。
このように、私たちが名称を与えて呼んでいるほとんどの存在はかたちの集合体にすぎないから真の実在ではない、と考えるようだ。
家も自動車も私たちが勝手に「そこにあるかのように」扱っているだけのものである。
しかし、この世の全てのものは虚構存在なのか?というと、そうではない。
そういった仮の名称で構成されている虚構世界の奥に、そういった世界を形成する基本的な実在要素がある。
『倶舎論』では三元論が採られているが、物質世界には物質世界を構成する実在要素が、精神世界には精神世界を構成する実在要素が、さらに物質や精神どちらにも属さない一種のエネルギー要素も実在している。
このような基本的な実在要素を「法」という。→仮設ということは何も存在しない???
法が様々な状態で絡み合ってこの世はできている。決して「色即是空」とは説かれていない。
この世の真の姿を理解するためにはまずは法の実態を正確に把握しておく必要があるが、特に重要なのは「私」という存在の意味づけだろう。
しかし「私」は法ではない(ということは実在ではない)。
「私」とは仮設であり、「自動車」や「家」同様に様々なパーツの寄せ集めに過ぎない。
仏教では「法をすべて眺めてみても、どこにも私という実在はない」という意味で、これを「諸法無我」という。
この世を究極の実在要素にまで還元した場合、「あるに決まっている」と思い込んでいた「我」がどこにも見当たらず、様々な法の一時的な集合体にすぎないということに気つく、そこが仏教哲学の出発点である。