『倶舎論』では三元論が採られている
from:『倶舎論』の分析の出発点
参考:『仏教は宇宙をどう見たか』
現代科学は精神世界の独立性を認めず、精神もまた物質的現象の一部として説明可能だと考える機械的一元論である場合が多い。
昔は特別視されていた精神という領域も今では脳という物質的器官の作用として物質世界に還元されつつある。
2000年前のインド仏教世界ではもちろんそういった科学的一元論はない。
物質は物質、精神は精神、ここに別個の基本要素(法)が何種類か存在し、それが集積して物質世界、精神世界を構成していると考えられている。
また、『倶舎論』ではそこにもう一つ、物質でも精神でもない、別の範疇があると考えられており、今で言うならエネルギー領域が想定されている。
この世には物質でも精神でもない全く別の法が存在しており、それが物事を動かし、変化させる作用に関わっていると考えられていた。
つまり、『倶舎論』の世界観は「物質」「精神」「エネルギー」の三元論になっている。→有為法の分類 ~仏教の三元論~
基本的には、この三領域の法が相互に関係し合いながらこの世を動かしていく。
※しかし、『倶舎論』ではもう一つ別枠の法が存在してもいる→いかなる作用もしない実在要素 ~無為法~、『倶舎論』におけるこの世の大枠~有為法と無為法~
この『倶舎論』の三元論は現代の科学的一元論から見ると稚拙と思えるかもしれないが、「三元論」という外枠を外して内実の相互関係を見るなら、現代の世界観とそれほど違うものではない。
精神の領域には「外界認識」とか「論理思考」とか「愛着」とか「怒り」といったような四十以上の法が想定されているが(→これが法のすべて ~五位七十五法~)、それらの法が様々に集合し、絡み合ったところに私たちの「精神」というものが構成される。さらに、それは眼や耳などの感覚器官を通して外部の物質世界と連結されている。
見方を変えれば、目や耳などの感覚器官も精神の一部ということになる。
つまり、心や心の作用を構成する四十以上の法とそこに外部情報を導入する感覚器官、その全体が精神の本質だと考えられている。
これを、「四十以上の基本機能の集合体として脳の働きが構成され、その脳は目や耳などの感覚器官を通して導入される外部情報をベースにして機能する」と言えば、そのまま現代の精神医学や脳科学の構造に転換可能なのだ。
現代科学と「精神世界に実在性を認めるか」という点で見解が分かれそうだし、『倶舎論』では物質と精神の連合体に様々な活動機能を与える第三の要素としてエネルギーが想定されているのではあるが。
しかしこのように見ていくと、『倶舎論』の三元論は決して世界を三つの独立した領域に分断して考える世界観ではないことがわかる。
物質と精神とエネルギーはそれぞれ独自の特性を持つ別個の領域ではあるものの、それが分断不可能な状態で一体化したところにこの世の現象世界が現れてくると考えられている。
これは、物質と別次元のところに「魂」を想定し、物質を離れても独立して存在し得ると考えるキリスト教やイスラム教の二元論とは視点が異なっている。