「筆者」の「相対性」の区別を考える
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「純粋な相対性」と単なる「相対性」に関して。
ウィトゲンシュタインは、「相対的な意味」とは「目的があらかじめ決まっている」あるいは「ある特定の、あらかじめ決まっている基準に達している」ことだと言う。つまりまず「あらかじめ」目的や基準が決まっていて、そういう決まっているものを前提として、いくつかのものが比較されることにより、ある意味が決まってくるということである。するとこれは、あるものとあるものを比べることによってその都度決めるといった、純粋な相対性という意味での「相対的な意味」ではなく、ある基準つまりある絶対的なものを枠組みとして初めてそのなかで決まってくる相対性ということになる。
上の文章から次のことがわかる。
1.「筆者」は「純粋な相対性」とそうではない「相対性」を区別している
「純粋な相対性」= あるものとあるものを比べることによってその都度決めるような相対性
2.「筆者」は「倫理学講話」における「相対的な意味」の相対性を後者(〈相対性〉)であって、前者(「純粋な相対性」)ではないと考えている。
さらに、「筆者」は〈相対性(的)〉は「主観的」とした方が適切であると考える
またこのピアニストのピアノ曲の巧妙さや難易度を決めるのは、「よいピアニストである」と言う当人なのだから、最終的にこの文の意味は、「相対的」というよりもむしろ「主観的」といったほうがより適切であると思われる。
そうするとこの例から導かれる教訓は、テニスの上達に対する考え方にはいろいろな考え方があり、ただ一つの答は期待できないということになる。そうなるとこの判断も「相対的」と言うよりも「主観的」と言ったほうが適切であると思われる。
では「筆者」の考える「主観的」とは何か?
ウィトゲンシュタインが言うような「相対的」と「絶対的」をわける質的な違いにはなっていないように思われる。ある意味で原理的にはテニスの場合と同様その答を発する人の主観の違いに帰せられるのではないか。
というのもこの二つの例の相違の根拠は、ウィトゲンシュタインの言っているところでは、嘘つきに対する個々人の反応に依存するからであり、それはいま見てきたように全く個別主観的なもので原理的に共通性は存在しないからである。(中略)したがってウィトゲンシュタインの言う(中略)「相対的」の方は先述したように「主観的」という言い方のほうがより適当であると思われる。
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脚注