「問い切らない」とは回答者が答え切らないような質問をすることか
「問い切らない」とは回答者が答え切らないような質問をすることか?久住哲.icon 元の文脈だと思うもの
じゃあどんな質問を用意する?
「なるべく緩やかに掘れるような大枠的な」質問
普段スポットが当たらないものについてのTipsがついた質問 疑問
質問を誘発させるとは?
まずこの誘発される質問は誰のものか
1. 回答者以外の人の質問
2. 回答者の質問
なのでこれは回答者以外の人の質問が答え
流れとしてはこうだろう
自己紹介で既定の質問に答える
回答者の回答が他者の質問を誘発する
すなわち、問い切らないことというのは、回答者が答え切らないような質問ではないか?
この解釈を例に適用して、この解釈を検証
「貴方にとって好きな音楽は何ですか」
これに対してはロックですなどと答え切れる
だが、この回答はなぜロックが好きですか?という質問を誘発する
すなわち、答え切ることができ、かつ、質問を誘発する。これは解釈と合わない
「シュールレアリスムとは〇〇である。貴方はシュールレアリスムに対してどう思うか」
これに対してはシュールレアリスムは〜だと思うと答えられるが、それについて詳しくない場合、「答え切る」ことができない
その場で説明されたことをもとに答える
正解を答えるものではない
自分の考えを答える(言う)ことになる
これもなぜそう思った?などの問いを誘発する
結論:「答え切らない」の意味が曖昧。それは「問い切る」の解釈が完了していないからだろう。
Thistleからの捕捉Thistle.icon
”問い”と”答え"、もっというなら"質問者"と"回答者"はある種の情報の不平等に置かれている。つまり、"質問者"は大抵の場合、何かしらの意図に基づいて"質問"をして回答者はその意図をただ推測して回答しなければいけない。面接とか。
また、最も重要な事項として、"質問"が何かしらの意図に基づいて作成される時、それは”到達点”のようなものを持つ。面接官が「貴方の長所を教えてください」と言った時、彼が「こいつは自分を客観的に見れているのか」「語れるほどの長所があるか」、みたいな所を見るように。なんなら、"質問"自体とは別に意図がある場合がある。「はきはきと喋れているか」みたいなんを確認する為にアイスブレイク的に「ここまで来るのに時間かかったでしょ?」とかいう質問を挟んだりとか(情報の不平等)。
こういう事を考えると、"答え切る"というのと"問い切る"というのにかなりの情報的ギャップがある事が分かる。つまり、回答者は質問に対して不足なく答えれば"答え切る"と言っていいだろうけれど、一方で”到達点”みたいなんがある時に"問い切る"というのはつまり、その"到達点"に質問に解答するだけでは届かない程度に質問をする事。面接でも、日常の友人関係でも研究発表でも”質問力”みたいなんが言われるのはこういう事情がなければありえない(到達点への意識)。また、発表の場で「全てを細かく説明しきらないで、コンパクトに纏めろ」というのは時間的な問題やらなんやらだけでなく、発表者が”突っ込み待ち”をしていたりする場合もある。「よく聞いてくれましたねぇ!」みたいな言葉が質問に対して出てくる時とか。
「貴方の好きな音楽は何ですか」という相手の音楽的趣向の理解を"到達点"とする質問は、その意図に反して”理由”なりなんなりを問わない。普通、こういう質問をちゃんとするなら「貴方の好きな音楽と、何故その音楽が好きかを教えてください」みたいに言うべき。そこんとこに配慮して理由を述べる回答者は”回答力”みたいなんが高いんだろうなと思う。ただ、これは単なる経験則だけれども、”回答力”が高い回答者は質問文と回答文のバランスを気にする。アイスブレイク的な質問と捉えた物に関して、自分の生い立ちから論拠立てて答える、みたいな事はしない。彼は”掘り下げ”みたいなんを意識する事が多い。ただ今書いて思ったのは、この辺は”コミュ力”みたいなんが絡むあたり、オタク的気質な人はめちゃくちゃその辺掘り下げるのでアープラだとどうなんだろなあ。
「シュールレアリスムとは~である、貴方はシュールレアリスムに対してどう思うか」みたいなんは”自己紹介の時に質問として用意する”時、結局それは「回答者がシュールレアリスムに対してどう思うか」みたいなん以上に"回答者の思考の癖"みたいなんを”到達点”としている。シュールレアリスムは掘れるほど実はそんなに詳しくないので例えば「貴方は真理とは何だと思うか」みたいな質問は、「私は真理とは一種の幻想であり、人間にとってある種で”有益な”判断基準である」とか「それは認識と対象の一致である」とか、色々なパターンの回答がありえる。そこの所を見ると「へぇー、プラグマティズムみたいな考え方ですね。パースとか好きですか?」とか、なんなら「有用説を唱えるんですね。でも”有用である”という判断基準よりも、実の所対応説のような判断基準の方がより”有用”という考えについては、どう思いますか?」みたいな風に批判気味に掘れたりする。”どう思いますか”というのは重要。論破なり批判なりではなく、これは単に貴方の事を知りたいのだ、という意図を伝える為に。この辺は ”質問力”と”コミュ力”が重要。Tipsは「普段スポットがあたらない分野」という条件付き。「その分野における基礎中の基礎」だけをサクっと紹介して、その分野自体を”紹介”なり”共有”する事が出来る。つまり、学際とか分野横断とかを意識する場合にTipsは重要になる。
また、専門的な物は必然的に門外漢を持つから、大半が初学者で、だからこそ”解釈の余地”なりなんなりを産ませやすい。「近年、自動運転の技術が発達するにつれて、事故が起きた時の責任は事業者、運転者、AIの誰にあるか。また、AIは責任主体になるかという問題があります。貴方はこれらの問題についてどう思いますか?」というのに完全な答え(科学倫理で用意されている答え)が用意できる人は多分少ない。
つまり、"到達点"に届かない、届かせないという事‘(問い切らないという事)は"質問の誘発"に極めて重要。”答え切る”人がでてきても、それは”到達点”に対して”答え切っている”訳ではない……というような事になる。
あと、"質問を誘発する"以上にもしかしたら"共感を誘発する"のは重要かもなあ。コミュニケーション的な寂しさを前提とするなら、つまり自分に対しての興味を前提とするなら、「わかるわー」の方が嬉しい訳だし。だからこそ”解釈の余地”が生まれる質問は良いのかな。