疾しい良心は国家によって生まれた
まずニーチェは人間には原初的な自由の本能があるとしている。この自由な本能もニーチェに言わせると力への意志となる。 かの自由の本能(すなわちわたしの言葉では力への意志)
この本能は外部に捌け口を見出せなかった場合には内部に向けられる(人間の内面化)。
外部に捌け口をみいだすことのできなかったすべての本能は、内部に向けられる──これがわたしが人間の内面化と呼ぶものである。こうした人間のうちで、後に「魂」と呼ばれるものが育っていった。この内面の世界のすべては、当初は二枚の皮膚のあいだにはさまれた薄いものだったが、人間の外部への発散が阻害されることが多くなるとともに次第に分化し、膨れあがり、やがて深さと広さと高さを獲得していったのである。
そして、国家(征服者かつ支配者である種族)による刑罰などの防壁によって人間の自由な本能は自分自身に牙を剥くようになる。
国家の組織は、人間の原初的な自由の本能に対抗するために、恐るべき防壁を築きあげたのだったが──刑罰はこうした防壁の一つにすぎない──、こうした防壁が人間にもたらしたのは、野性的で、自由で、漂泊する人間のすべての本能が向きを変えて、人間そのものに刃向かうようになることだった。敵意も、残酷さも、迫害し、襲撃し、変革し、破壊することの快感も、──すべてがこうした本能の持ち主へと向きを変えたのだった。これこそが「疚しい良心」の起源なのだ。 自分を閉じ込める檻の格子に身をぶつけて傷つくこの獣を、人々は「飼いならそう」というのである。この欠乏に苦しむ者、故郷の荒野への郷愁のためにやつれた者、みずからを冒険と拷問の場所に、不安に満ちた危険な荒野にせざるをえなかった者、──この愚か者、望郷の思いに苦しめられ、絶望したこの囚人が、「疚しい良心」の発明者になったのである。
しかしこの発明とともに、もっとも不気味で重篤な病が発生したのだった。人間は今日までこの病が恢復していないのだが、これは人間が人間であることに、自己自身に苦しむという病である。人間は獣としての過去から暴力的に引き離され、新たな状況と存在条件のもとに、飛躍的に突進していった結果として、この病に罹ったのである。人間はそれまで自分の力と快感と恐ろしさを本能に依拠していたというのに、この本能に宣戦布告をしたのである。
このようにして、地上で「国家」というものが始まったのだ。国家が「契約」によって始まったなどという夢想は、すでに終わっているとわたしは思う。命令することができる者、本性からして「支配者」である者、仕事においても物腰においても暴力的な存在として現れる者──こうした者にとって「契約」にどのような意味があるというのか!
こうして人間の自由な本能は潜在的なものとされた。
このようにして自由の本能は暴力的に潜在的なものとされたのだ──これはすでに確認したことである──、押し戻され、内攻し、内面という牢獄に幽閉され、最後にはみずからに向かってしか爆発し、発散することができなくなった自由の本能。これこそが、これだけが疚しい良心の始まりなのだ。