目的や効用などというものは全て力への意志のしるしにすぎない
しかし目的というもの、効用というものはすべて、力への意志が自分よりも力の弱いものを支配する主人となり、ある機能の意味を力の弱いものに押しつけたという〈しるし〉にすぎないのである。 第二論文でこの部分で考察されるのは主に「刑罰の起源と目的」についてだが、ニーチェと同時代(またはそれ以前)の道徳哲学者はまず刑罰の目的を探し出してその目的を刑罰の発生因とする。
例えば、「加害者への復讐」や「将来の犯罪を防ぐための威嚇」のために刑罰が作られたと考えてしまう。
しかし「法における目的」というものは、法の発生の歴史においては最後になってから使われるべき概念である。
刑罰以外にもあらゆるものに対してまず目的を探し出して、それをその概念や制度などの起源としがちだが、ニーチェはそれを否定している。 昔から人々は、ある事物、ある形式、ある制度に、明白に示せる目的や効用があることを確認できると、すぐにそのものの発生の根拠についても理解できたと信じ込んでしまうからである。たとえば目は見るために作られたし、手は摑むために作られたというわけだ。だから刑罰も、処罰するために作られたと考えるのである。
現代的な趣味では、すべての出来事において力への意志が現れているという理論よりもすべては絶対の偶然によって起こるのであり、意味のない機械論的なプロセスだという見方を好ましいと考えているようなのだ。