映画と小説の類似性について
映画と小説のあいだには有効な類比が成り立つーーそれも、私の考えでは、映画と演劇の類比以上に有効なものが。小説と同じように、映画はいついかなるときでも完全に監督(作家)の思うままになっているアクションを観客の眼に提示する。観客は、舞台の場合と違い、眼をスクリーンのあちこちに走らせることはできない。カメラは絶対の命令者なのだ。われわれがひとつの顔を見なければならないときは、カメラはそのひとつの顔だけを見せ、他のものはいっさい見せない。固く握りしめた両手、風景、疾走する列車、差し向かいの話し合いの最中に挿入される建物の正面ーーカメラがわれわれにこれらのものを見せる必要のあるとき、そのときだけ、これらのものが映されるのだ。カメラが移動すると、われわれも移動し、 カメラが止まればわれわれも止まる。同じように小説は、作家の観念に関係した思想や描写を選びとって提示し、われわれは作家の導くままに連続してそのあとを追う。絵画や舞台の背景と異なり、われわれの好き勝手な順序に従ってゆっくり観賞すればよいようにただ眼前に展(ひろ)がっているのとは、違うのである。
また、映画と小説を安易に繋げようとすることに対して、慎重な態度を持ちながらこう述べています。
小説と映画をしばしばひとつの環で繋がりをつけようとするが、この環はしかし有効なものとは思えない。すなわちそれは、映画監督を、主として「文学的」な型と、主として「視覚的」な型とに分けるという、古い考え方である。現実には、作品がそんなに簡単に色分けできる監督はごくわずかしかいない。少なくとも有効といえる区別は「分析的」な映画と「叙述的」かつ「説明的」な映画という分類であろう。第一の型の例はカルネ、ベルイマン(とくに「鏡のなかにある如く」と「冬の光」、それに「沈黙」)、フェリーニ、それにヴィスコンティである。第二の型の例は、アントニオーニ、ゴダール、そしてブレッソンと言えよう。第一の型は心理映画、つまり登場人物の動機を解明することにもっぱら関心を寄せている映画、と言うことができょう。第二の型は反心理的な映画で、感情と物のあいだの相互作用をあつかうものである。そこでは人物は不透明で「状況」にさらされている。これと同じ分類が小説の場合にももちこめるであろう。ディケンズとドストエフスキーは第一の型であり、スタンダールは第二の型である。 下の分類に関して、その作家の作品を体験していない人にはよくわからないかもしれない。
もちろんソンタグは映画や小説作品が必ずこの2つの分類に分けられると言いたいわけではないだろう。