ロベール・ブレッソン
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フィルモグラフィー
公共問題 Les Affaires publiques 1934年 監督/脚本
Les Jumeaux de Brighton 1936年 脚本
南方飛行 Courrier Sud 1937年 コンテ 原作サン=テグジュペリ
罪の天使たち Les Anges du péché 1943年 監督/脚本
ブローニュの森の貴婦人たち Les Dames du Bois de Boulogne 1945年 監督/脚本 原作ドニ・ディドロ
田舎司祭の日記 Journal d'un curé de campagne 1950年 監督/脚本 原作ジョルジュ・ベルナノス
抵抗 (レジスタンス) - 死刑囚の手記より Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut 1956年 監督/脚本 原作アンドレ・ドヴィニ
ジャンヌ・ダルク裁判 Procès de Jeanne d'Arc 1962年 監督/脚本 バルタザールどこへ行く Au hasard Balthazar 1966年 監督/脚本
少女ムシェット Mouchette 1967年 監督/脚本 原作ジョルジュ・ベルナノス
やさしい女 Une femme douce 1969年 監督/脚本 原作ドストエフスキー
白夜 Quatre nuits d'un rêveur 1971年 監督/脚本 原作ドストエフスキー
湖のランスロ Lancelot du Lac 1974年 監督/脚本 原作クレティアン・ド・トロワ
たぶん悪魔が Le Diable probablement 1977年 監督/脚本
ラルジャン L'Argent 1983年 監督/脚本 原作トルストイ 来歴
1901年9月25日、フランス・ピュイ=ド=ドーム県ブロモン=ラモトで生まれる。
映画監督になる前は画家、写真家として活躍←おそらく写真家としての経験は彼の映画における重要な視線を養ったと思われる
そのあと数本の作品に助監督、脚本家として参加
1934年中篇『公共問題』で監督デビューするものの仕上がりが気に食わずすべて廃棄処分
WWIIに従軍、ドイツ軍の捕虜となるが、収容先で知り合った司祭から映画の制作を依頼され、終戦後に制作?←このエピソードは疑わしいが、『罪の天使たち』『田舎司祭の日記』は確かに司祭や修道院が題材になっている
『ブーローニュの森の貴婦人たち』の制作後にジャン・コクトーらとともに、後の「カイエ・デュ・シネマ」の母体とも言うべき組織「オブジェクティフ49」を創設→2年後脱退するが、この活動はヌーヴェルヴァーグに強い影響を与える 1951年『田舎司祭の日記』がヴェネチア映画祭で3部門受賞
1956年の『抵抗ー死刑囚の手記より』がカンヌ映画祭で監督賞受賞
寡作ではあるものの着実に数年おきに各作品を製作、公開。世界中の数々の映画賞を受賞し、広くその名を世間に知られることになる
1983年『ラルジャン』がカンヌ映画祭で2回目となる監督賞受賞
1999年12月18日、パリで死去。98歳没
(私生活はヴェールに包まれているが、レイディア・ファン・デル・ゼー、ミレーヌ・ファン・デル・メルシュとの結婚歴あり。アンヌ・ヴィアゼムスキーの『若い娘』によると、ヴィアゼムスキーにも求愛していたらしい)モテただろうね
ブレッソン映画の特徴
彼の映画作りは独自の厳格な戒律に基づいている
極限まで虚飾を廃する
「創造は足し算ではなく引き算によってなされる。発展させるというのはまた別のことだ」
演出上の仰々しさ、派手さ、センチメンタリズムを排除
演者の感情表現の排除
登場人物の孤独を淡々と、冷たく、容赦なく映し出す。観客の同情や共感を引き起こさないようにする
特定のキャラクターに温情をかけたり、ストーリーにメッセージ性を持たせたりしない
芝居がかった演技を嫌い、初期の作品を除き出演者にはプロの俳優の人工的な演技行為の意味や感情をあらわすことをひどく嫌ったため、その作品限りの素人ばかりを採用し、出演者を「モデル」と呼んだ
映画において演劇の様式を取り入れても、演劇のコピー(虚偽)にしかならない
「シネマトグラフの真実は、演劇の真実でも小説の真実でも絵画の真実でもあり得ない(シネマトグラフがその固有の手段によって捉えるものは、演劇や小説や絵画がその固有の手段によって捉えるものでもあり得ない)」
モデルには思考の排除を求め、延々と同じ動きを要求する(人物の目線や動作のフォルムの様式化)
「我々の動作は9割が習慣や自動現象に頼っている。それらを意志や思考に従属させるのは反自然である」
その中から無意識的におこる繊細な現象をカメラにとらえる←延々と同じことさせるから時間がめっちゃかかった
演者の容姿より「声」を重要視した
彼は自分の映画を「シネマトグラフ」、世間の映画を「シネマ」と呼び、別物として分けた→シネマトグラフという名前はリュミエール兄弟が発明した映像装置からきている。彼はせっかく発明された映像装置が創造的な使われ方をしていない、という不満があった
音楽は極力使用しない
音楽は使用しないが、「音」は効果的に使う←日常の生活音とかやね
映像と音の配置
「音楽が場の全体を占めてしまうと、それが添えられている映像を引き立てるということがなくなってしまう」
照明に関しては、視線が大事であると述べている。
「より多くの光ではなく、それらを見つめる私の視線の新たな角度によって、より明らかに目に見えるものとなる事物の数々」
映像技法としてはクローズアップの多用、短いショットの大胆なつなぎ(モンタージュ)を繰り返すことに特徴がある
「モンタージュ。死んだ映像から生きた映像への移行。全てが再び花開く」
クローズアップされるものは人間の顔のみならず、手であったり、お金だったりロバだったり、体の細部であったり様々である←事物を細部まで覗く彼の視線は写真家時代に培われたものだと思われる(2回目)
「注意深くあれ」
撮影した映像はなんども分解してモンタージュを繰り返したそこから強度が得ることができる
「感動的な映像によって人を感動させるのではなく、映像に生気を与えると同時にそれを感動的なものにする、映像相互間の諸関係によって感動させること」
映画のテーマは宗教的なものから、貧困、ラルジャン(金銭)、レジスタンスなど
「同じ一つの主題も、映像と音によってどうにでも変わってくる。宗教的主題はその尊厳と高揚を映像と音から受け取る。その逆、映像と音が宗教的主題からそれを受け取る、というのではない」
メモ
ブレッソンの映画には孤高性が漂っており、実際ブレッソンの映画様式に遵守した監督は前にも後にも彼しかいない
禁欲的な倫理を感じるが、これは彼がカトリック信者であることが関係しているのだろうか
映画の中でも聖書からの引用や宗教関係をテーマにしたものが多い
そのわりには映画の登場人物はまったく救われない
ここ掘るともっと面白いんだろうな
彼の著書『シネマトグラフ覚書』はモンテーニュの『エセー』からの引用も見られる。エセーの意味は<試み>である
そいうや<節制>なんて言葉もよく使う
覚書には「なぜ」宗教や抵抗、金銭、罪をテーマにしたかなどは書いていない
フランスといえばラルジャン(金銭)だ
ゴダールは「ブレッソンはドストエフスキーがロシア小説で、モーツァルトがドイツ音楽であるように、フランス映画なのである」と語っている
演出にオートマティスム(自動現象)を用いていたのは興味深い
俳優は現実の真似をしているのであり、それを持ってきても現実は描けないと思っていたのだろうか
まっさらなモデルに習慣や現実を染み込ませようとしていたのね(要はモデルを現実の僕らに仕立てあげようとすることだ)
ゴダールは「俳優の中にも真実はあるべさ」と噛み付いてたらしいけど
「より多くの差異を得るために、より多くの相似を与えること。生活の均質性と統一性は個々の兵士たちの本性や性格を浮き彫りにする。「気をつけ!」の姿勢においては、全員の不動性が、各人の持つ特有のしるしを現出させる」反復やら差異やら
彼が映画に求めたのは「現実」や「真実」であり、「虚偽」を排除しようとした
フィクション(虚偽)を映画化しつつ、フィクション(虚偽)を排除するという一見矛盾した行為に思える
ホラーちっく屋根
僕がまとめたこの記事から興味をもった人は、ブレッソンが1950〜58年、1960〜74年までに書きとめたものをまとめた
『シネマトグラフ覚書』を読んでみたらいいと思う。(ここで一部引用したがよりたくさんの名言が読める)
映画はこう撮れ!みたいな具体的な事柄はあまり書いていませんが、創作論としても読めます。
いや、その前にブレッソンの映画を見るべきである。
参考文献
『シネマトグラフ覚書』 ロベール・ブレッソン【著】松浦 寿輝【訳】